原町飛行場で
皆川利善氏は当時旧制双葉中学校生徒で、約一ヵ月間近く、原町飛行場に出動していた。原町の東本願寺別院が宿舎で、そこから飛行場に通う。仕事は飛行機を爆撃から守るための掩体壕を作るための土掘りた土砂運び、それから既にできあがり使用中の掩体壕や松林と滑走路の間の隼(一式戦闘機)の搬送であった。作業中に沖縄へ征く特攻機を見送ったことがある。国華隊である。エンジンを全開して飛行場上空を一周して南の空に飛び去った隼の三機編隊が今もまぶたに焼くついている。(※隼ではなく99式襲撃機である)
直接吾々の指導をしてくれ、中国語で歌をうたってくれた東亜同文書院出身の若い見習士官、それに斉藤軍曹、井上伍長、この中で特攻隊員として井上伍長は散華されたと後で聞いた。単なる作業でなく、きびしい訓練も行われた。疲れてどれ程眠くても不寝番に二人ずつ一時間交代で立つことになっていた。真夜中に非常呼集がかかり「有力な敵機動隊三陸沖合にあらわる……諸君は直ちに飛行機搬送の為に飛行場に集合すべし」との命令で、隊伍をととのえ、二キロ位はなれた飛行場まで駆け足で集合した時は、死を覚悟した位だった。
滑走路や作業現場は必ず軍歌演習であった。食糧は乏しく、焼印の番号のついた木製の弁当箱に、サッカリ詰めた昼食は、振りながら歩くと三分の一位になってしまった。寝具は前々からの勤労奉仕の人達の使い古した毛布二枚をうけついだが、シラミがひそんでおり、就寝前のシラミ取りは毎日夜の恒例行事になった。毛布を広げてあちこちで上げる戦果の声が聞かれたが、二十匹三十匹の声には鳥肌があった」
村井松男さん(当時相馬農校生)のきぅによればこうだ。
「グラマン機は、私らが作っていたベニヤ板製のニセ物の飛行機には目もくれないで、掩体壕に隠してあった日本の戦闘機をねらって爆弾を落とす、機銃掃射を浴びせる。
みんなは一人用の塹壕に入っていて、犠牲者は出ませんでした」
門馬太氏回想。
「(第一波の)敵機が去ったので、雲雀ケ原農場へ行く。午後二時再び来襲。農場は飛行場の東側に在り、且つ身を隠す樹も建物もないので、かねて畑の隅々に防空壕(というより塹壕というべきか)を掘って用意していたので、これに退避して一名の犠牲者も出さずに済んだ。初めての頃と違い、生徒の逃げ足は驚くほど速く、爆音がきこえるや否や壕に飛び込む。生死の境に直面しては、習わずして護身の本能が働くものと言える」