防空監視隊

 林七郎さん(栄町一丁目)は、その朝防空監視哨で、敵機の機影をはるか海上に探していた。
 防空監視哨が本町の旧家油屋呉服店の屋上に設けられたのは、昭和十六年の十月のことであった。軍は、アメリカとの開戦に備えて、全国に防空監視網をめぐらしていたのだ。監視哨の初代の哨長には故今村忠名氏が就任したが、教職と兼任だったため後に本業に専念するため辞任。古内勝男氏が二代目哨長となった。が、古内さんも応召していったため、副哨長であった林さんが三代目哨長になった。
 勤務は二十四時間交代で、常時七人ほどが警戒にあたっていた。監視隊員は主に青年学校生徒であった。町内の長男が多かった。
 当初、地区の監視体本部は平にあったが、空襲が本格化してきた昭和十九年からは、原町にも警察署内に本部が設けられた。監視哨は相馬、鹿島、原町、浪江(この四か所が原町の防空監視本部に連絡する)広野、富岡、四倉、平、植田、小名浜などにあって、福島県の浜通りから侵入してくる敵機をチェックした。
 これらの監視哨で発見された敵機の情報は電話で一分以内に東京都下の東部軍管区司令部へ報告される。司令部では書く地からの情報をもとに、敵機の侵入コースや攻撃目標を判断し、各県知事(県防空課)を介して、末端の警察署や役場へ警戒警報および空襲警報を命ずる。
 従って場合によっては、敵機の攻撃を受けた後に警報が鳴ることもあった。二月の初空襲の時が、まさにそうであった。だが原町の防空監視哨では、その時敵機の来襲を確認し、あらかじめ警告を発している。
 林七郎さんは語る。
「あの時は、まず塩谷崎沖に五、六機編隊の敵機が侵入してきたという連絡が小名浜監視哨から電話で来ました。日立にある電探(レーダー)を避けて、会場すれすれの低空から侵入してくるわけです」
 飛行場がやられる、と思った。
 あらかじめ原町飛行場へ電話で敵機来襲を告げた。報告の義務はなかった。監視哨の義務は、軍管区司令部への報告だけである。しかしこの場合は林さんらの「直感」があった。
「どうしてそんなことがわかるのか! 間違いではないのか!」
 原町飛行場側の反応は意外であった。
 いちいち説明している暇はない。林さんは電話を切った。間もなく敵機が原町上空へ来る筈だ。その侵入高度、敵機の機数と機種、方角などについて克明に監視報告しなければならない。そのために厳しい訓練もしてきた。
 監視隊員のあいだに金箔した空気が流れた。
 それは来た。
 南東海上に千メートルの上空に、編隊を組んで敵機はやって来た。先頭の機が、翼を振って合図するや編隊は縦一列に並び始めた。そうして無線塔の上まで来ると、再び先頭の機が翼をバンクしして合図した、と思うと、すかさず全機が急降下してきた。

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