学徒斉藤和夫さん

 斎藤和夫さんは双葉郡長塚町(現双葉町)新山広町から、原町の相馬商業学校へ通学していた。同校は昭和十四年に商都原町の子弟人材養成のために開校したが戦争が苛烈になると国家総動員体制に則って兵器生産に労働力を提供すべく非生産的な商業科を排して戦争遂行という国家目的のため相馬工業学校と科目を変えて、軍事工場に勤労奉仕で少年労働を課していた。昭和十九春に開業した帝国金属原町工場と、横浜の軍需工場で慣れない旋盤作業に従事したり、一般工員にまじって原町紡織工場で染色、紡績などの仕事を担当した。
 相馬商業学校は戦後の昭和二十三年に原町女学校と合併して新制原町高校となった。
 斉藤さんは富岡や双葉、浪江、小高などから通学していた仲間と共に、今度は原町紡織工場の宿舎に寄宿することになった。
 十八歳未満の少年たちは、二交代の工場労働はつらかった。そのうえ、彼等の胃袋を満たすだけの食事の量が出なかった。
 ある寺に分宿していた生徒たちは、ひそかに住職が彼等の持参した米をくすねてドブロクを造っているという噂を囁いていた。それは、縁の下にあったとも。
 そんな苦情が引率の教師に寄せられたりした。平時であれば学習や運藤に励んでいるべき少年を一般の成年工員と同じ労働に駆り立てなければならなかった教師たちは心苦しかった。
 しかし郷里には健康で屈強な成年男子など、一部を除いて殆ど兵隊にとられていたし、そのためにこそこれらの学徒が動員され少女たちが動員された。挙句の果てに小学校高等科から五六学年の生徒児童まで動員されていた。
 総員千二百名ののぼるこれらの臨戦態勢下の少年労働者と一般工員たちは、共に軍服の染色作業に携わっていた。
 斉藤和夫さんが属する班は相馬工業学校の最上級生の班で、和夫さんは小柄で茶目っ気のある明るい少年だった。
 彼は三月の卒業を目前にひかえ、すでに満州鉄道の就職試験に合格していた。家族は立派に成長した和雄さんの将来に期待し、心から喜んでいた。
 前日、彼は実家に帰っている。
 二月十五日は旧正月であった。
 和夫さんは朗らかだった。
 金歯がとれた。縁起が悪い、などと言ってはみな笑ったりした。なごやかな旧正月であった。
 外地である満州まで息子を送りだすことに家族は反対だった。長男と次男は、それぞれ陸軍と海軍にとられ、このうえ三男までも外地へ行かされることに、不安を禁じえなかった。
 だが本人の決心は固く、心はすでに満州にあった。姉トクさんは、弟のためにリュックを縫った。手に入れようにも、どこにもリュックサックなど売っていなかった。
 二月十五日、同じ双葉の町内の仲間たちもそれぞれ自分の家に帰ってきていた。その夜は泊まり、翌日も泊まってゆく仲間もあった。母タツさんが尋ねた。
「もう一晩ぐらい泊まってゆがれんだべ」
「何言ってるんだ。今戦争なんだぞ。俺は戻るよ」
 周囲を笑わしてばかりいる和夫さんの、生真面目な一面であった。
 
 原町の夜の森公園の下の宿舎から、午後勤務の班の者たたちは、工場食堂まで朝食を食べに出かける。
 食堂は、講堂と兼用の広い建物である。工場と寮との間にあって、トロッコの軌条が側を通っていた。
 工場は、鋸型の屋根のいかにも工場らしい形の建物と、別棟の帆布工場や、ボイラー棟の大きな煙突が目印であった。
 真っ青な空に、もくもくと黒煙がのぼり、一日が始まろうとしていた。

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