門馬日記のこと

六月二十五日、相農史に昭和二十年の回顧録を書いた門馬太氏のお宅を訪問。どしゃぶりに近い夕刻であった。氏の手記の一部にある「この時雷雨はい然として来る」という部分を想い出した。
初対面であった。しかしすでに、原町空襲の記録として、すでに二度氏の手記を引用させて頂いている。私はまず、そのことのお礼を申し上げた。
「ああちょうど今日は雨だから、このあいだの頼まれてた原稿を書きあげたところでした」
その原稿の内容も含めて、直接語っていただいた。
門馬太先生は、実に精力的な方であった。終戦当時三十八歳。人のいやがる寄宿舎の舎監をしていた。しかも、陸軍飛行場の空き地を利用して、食糧増産のために学校農園を作りその責任者をしていた。もっともやっかいな役職であった。何故かといえば、当時の相馬農蚕学校の寄宿舎には、相双地方の各地から十四~五歳の少年たちが、七十人も集まっていた。この食べ盛り育ちざかりの胃袋に、莫大な食糧を運んでこなければならないという至難の仕事を担当していたのである。腹を減らした舎生たちが、近隣の農家の畑からトマトやらカボチャやらを失敬して栄養補給するため、連日謝罪しにまわるのが日課となっていたそうだ。
物資がなかった。農場で穫れたサツマイモを持って、電球と交換してくる。戦時下の庶民生活は物々交換のレベルまで逆戻りしていた。最初は交換してくれた電気屋さんもやがて厳しいまでに窮乏してくる頃になると前のようには交換に応じてくれない。
実習農場に播く種子を求めて、しばしば出張したが、各地で寸断された鉄道を乗り継ぎ何度も空襲に遭った。
重複をおそれずに、門馬先生の快諾を得て再度昭和二十年回顧日誌を掲げる。氏の行動の背後の戦時下の空気が概観できる。
ついでながら、これは昭和五十二年に出版された「原町無線塔物語」(ふくしま文庫第三十九巻・福島中央テレビ刊)にも、そのまま全文を転用させて頂いた。

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