残雪の中を
「あの日は大雪が積もっていました。」
石神村大木戸字仏場の自宅で、星スズイさんの父良猪さんは静かに語りだした。
「スズイは学校を出た後、一年ばかり東京にいる叔母の所へ子守りなどに行っていたこともあったが、挺身隊で働きに出ていてあの空襲に遭った。うちのスズイが怪我したという連絡が来たので、すぐさま母が(スズイの祖母テツ)原紡へ行った。
父良猪さんも原紡へ向かった。
「母という人は、ここいらの国防婦人会の会長をしていて、いやはや大変気丈な人でした。」
スズイさんは病院へ運び出された直後であった。スズイさんの祖母と父とは、すぐ病院へ行った。現在の高野眼科医院の場所で開業していた宇津志外科医院に運びこまれたのは、鈴木小松先生と星スズイさんの二人。
女子挺身隊の大原ヨシ子さんは、やはり近くの本町で開業していた渡辺外科病院へ運ばれていた。
星スズイさんの傷は、床に当たって跳ね返った。銃弾によるもので、右脚のふくろはぎから斜め上方に貫通し膝近くから抜けた傷であった。
直接の銃創でなく、一度床にはねかえった銃弾であったことが、致命的な原因となった。銃弾は貫通銃創を与えただけでなく、付着した壊疽菌も彼女にもたらした。
宇津志医師はさっそく手術にとりかかった。大腿部の途中から右脚を切断するために、医師と看護婦二人、それに父親の良猪さんの四人が手術室に入った。
手術室に水がまれた。出血にそなえるためである。それから沢山の薪がストーブにくべられた。二月なかばである。室内をできるだけ温めるのである。
良猪さんはスズイさんの着衣をめくりあげ、右足を折り曲げた状態にして力いっぱい押さえつけていた。医師はノコギリで骨を切りはじめた。関節の上で手術創を包みこむために、大腿部から切るのである。
手術は終わったが、薬がなかった。
スズイさんは小松先生と同じ病室に寝かされた。
小松先生は母親がちききりであった。が、三日目に、ちょっとの間席をはずした時、星良猪さんだけが部屋に残っていたが、星さんの眼の前で小松先生は息を引き取ったという。
スズイさんは苦しんだ。傷口から侵入した菌のために瓦斯壊疽に冒されていた。
宇津志医師は、聴診器で診断して言った。
「肺まで来ている。肺がブスブスと、つぶれている音が聴こえる」
そして、いかにも残念そうに言うのだった。
「ペニシリンがない。ペニシリンがあればなあ。薬さえあればなあ」
(むざむざ死なすことはいのに)
医師は大きく嘆息した。
「ガス壊疽菌が、全身に回ってしまって」
スズイさんは、苦しみながら十七日間生きた。そのあいだ、入れ替わり立ち代わりして女子挺身隊の仲間が見舞いと励ましに来た。というより、彼女たちは競って自分の血を献じた。
スズイさんはみんなの名前を読んで、そして言った。
「みんなが銃弾に当たらないように祈っているからね」
これがスズイさんの最後の言葉となった。
炊事係の斉藤夫妻も、忙しい仕事のあいまにしばしば訪ねて来てくれた。
スズイさんは、しかしみんなの激励にもかかわらず病魔は全身をむしばみ、体力はみるみるうちに衰えてきた。
妄想が彼女を襲いうわ言をいうのが両親の肺腑をえぐる思いであった。
三月五日になって、ついに意識がなくなった。
朦朧となって五、六時間が経過した。
こうして、最初の原町空襲の四人目の犠牲者が短い青春の命を閉じた。
雪は融け、戦争は四たび春をむかえようとしていた。