女学生
高橋ヨシ子さん(南町三丁目)は、原町実科女学校の生徒であったが、二年生の後期(十三歳)から学徒動員で原町紡織工場へ通勤した。
原町実科女学校はのちに原町高等女学校となり、やがて相馬商業と合併して昭和二十三円に原町高等学校となるが、この当時は現在の原町第一中学校の敷地にあって、主に花嫁修業的な授業内容だった。
「ご飯のわけかたとか葡萄の食べ方とか、女として身につけなければならない事をずいぶんさせられました。ですが、あの期間に授業が寸断されながら勉強した原子記号とか数学なんかは今でも役に立っているんですから不思議なものですねえ」
高橋さんは学徒隊長として、生徒の代表をして工場側の人々と折衝したが「学校では勉強できない事をたくさん学びました」と言う。
工女たちが自分たちの気持ちを託して歌う歌謡曲に「大人」の世界を垣間見た。
「小説なんて持っていたら大変な時代だったんですよ。それでもみんな、コートの下に隠して持って来たりして」
自分たちは、いわば「花園」の住人であった。戦争がなければ決して知らなかった社会であった。同級生たちは卒業と同時に結婚していった。だが、この学徒動員時代には全員が校舎を宿舎にして寝起きを共にした。
「そのせいか今でも結束力が強いんですよ。同級会ではほかの学年よりも集りはいいし、すぐまとまってしまう。工場でね。問題が起こると、みんなで対処しました」
高橋さんはまた、防空監視隊員としてもその任にあたった。旧警察署(現在の本町大石呉服店向かい側)の二階に設けられた防空監視隊本部で、いち早く連絡するために電話につききりであった。
原町紡織工場では、整経の部門で働いた。整経とは、紡織機械で布を織るためにまず縦糸を準備する工程である。
この工場では軍服の紡織やスフの暗幕染色などが行われていた。
この当時の工場内の作業風景は、全くといって写真に残っていない。軍需工場として軍の監督下に入れば、すべての面で秘密扱いされる。もしカメラを向ければ直ちに巣お会い行為と見なされるし、だいいちフィルムが一般の人々の手に入らない時代だった。
だが一枚だけ、新聞記者がとってくれたという写真がある。
写真が証明する彼女たちの姿は、凛々しくて美しかった。
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