仇はきっと討つ
昭和二十年二月十九日の地元新聞に、斎藤和夫さんの死に関する記事が載っている。
「仇はきっと討つぞ」
「憎くき醜翼の犠牲・斉藤君」
という見出しで、鈴木勝利相馬商業校長と同級生吉田隆彦さんの談話を中心に報道された。
「通年動員学徒として〇〇において敢闘中不慮の災禍のため十六日午前九時二十分遂に逝去した、商業学校四年生斉藤和夫(十八)君に就いて同校鈴木校長は左の如く語った。
斉藤君は双葉郡新山字北広町五七農要吉さんの五男で、兄姉は男三人女一人。君はその末っ子で、何んでも兄は昨年船舶兵として出征中との事です。君は級中の模範生で性質は極く温順且つ真面目な生徒でした。この工業通年動員として公園下の宿舎から通勤してゐましたが、一度も欠勤遅刻などしたことはありません。工場に於ける勤奉状態も仕事熱心で、いつも同僚の模範となってゐました。今春卒業すれば直に満鉄製鉄会社に入社に決定したということでしたが、卒業を前に斯る不慮の災禍から模範学徒を失ったことは返すゝ も遺憾に堪へません。
右に就て同じく商業四年生で通年動員に出勤寝食を共にしてゐた同郷同窓の親友吉田隆彦君(一七)は宿舎の玄関先に数名の同級生に肩をいからし悲憤に燃え乍ら語る。
僕は斉藤君とは直ぐ隣村の長塚で、御承知のやうに新山と長塚は川一つ隔てて境になってゐるので、いつも往復して親しくして居ました。商業に入学してからもズット一緒に遊学して居りました。通年動員になっても同じ宿舎で寝起きを共にし、斉藤君のことはよく知ってゐます。組は明朗な正確の持主で、汽車の中などでも滑稽なことを言っては笑はせたりしました。魚釣りが好きで新山の苗田川に釣竿を垂れてゐる姿もよく見ました。又武勇小説がすきで、宮本武蔵など読んでいるのを見たこともあります。各学科を通じ成績が良く、校長先生受持の先生からも将来を期待され、近く万て地入りするといふので、同級生から羨ましがられて居りましたのに、真に残念でたまりません。この仇はぜひ我々の手で討たねばなりません。工場の方も手を緩めることなく一生懸命働き増産に励み、皇国のお役に立たねばならぬと決心を固め今一同で申合わせたところです。」
※原文は旧漢字使用。段落と句読点は、編者が読みやすいように便宜上付した。

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