乙女の白い腕
太田村益田の大原家に急報したのは、近所の雫川に住む新妻さんである。新妻さんは原町紡織工場の世話焼き役をしていた。日の丸の神風特攻隊としるしたハチマキをして、自転車でやってきた。
母親は持ち回りの講を終えたばかりのところで、借りていた道具を近所に返しに行っていた。途中で妹さんが、その悲報に接した。いそいで母親が呼びにゆかれた。
母は急いで病院へと向かった。
ヨシ子さんは渡辺病院へ運ばれていた。
歩いていった。やっとの思いで長い道のりをたどり着くと、院長の渡辺伸先生に、
「今ごろ何だ!」と一喝された、という。
手遅れというのではない。傷はあまりにも大きすぎたのだ。腕は、もぎとれていた。
祖母は、近所に出かけて行く途中、空襲に遭って家に引き返した。そこで孫娘の負傷を知った。
「おばあさん。ヨシ子は渡辺病院だからね。原紡の方へ行ってもいないからね。直接病院の方へ行くんだよ」
そう言いふくめられはしたが、何分年をとっているので、原紡の方へ先に行こうとして、手前の陸軍の飛行場へさしかかった。
すると、この日の最大の攻撃目標となっていた飛行場の上空に、二次、三次の襲撃があって、祖母は身を隠しながら難を避けた。
原町紡織の方へは行けそうではないので、そこから町中の渡辺病院へと向かった。
大原ヨシ子さんの傷は、右上膊部の部分から右腕をもぎとられた痕と、脇にあいた小さな穴だ。この穴から入った弾丸が毛盲管銃創走のため、胃袋がズタズタに敗れて、何度も激しく口から血を吐きだした。
祖母は孫娘の腕を抱えてひとます家へ戻った。
母は何度も何度も念を押して行った。
「腕がもぎとれてることは絶対に人に言ってはダメだよ。いいね」
しかし、それもすぐにしゃべってしまった。
家に歯、子供ばかりが残されていた。家の近くのほら穴に、布団や食糧を運び込んで、絶対に出てはいけない、と母から言われていた。
ヤス子さんたちは、ほら穴から飛行場や原紡工場の上空を舞う飛行機が見えた。攻撃のたびに閃く射撃の様子や、火煙が見えた。
父親が弟の疎開避難のために群馬まで出かけていて不在であった。
朝の九時頃負傷したヨシ子さんが息絶えたのは午後七時になってからだった。
父親の帰りを待ちわびていた子供達は、その夜どんな不安な思いでその一日をすごしたことだろう。
玄関の音がするなり、みんな
「父ちゃんだ!」
と思った。
しかし、入ってきたのは消防団の村田権四郎さん故人であった。権四郎さんは今まで病院からの連絡を待って公民館につとめていた。
たった今、ヨシ子さんの右腕は、猫に食われないように押し入れに隠してあったという。無念さ限りない腕であった。
腕はかつての少女の白くほっそりした上肢が腐敗して膨れ上がっていて、十九歳で殉職した乙女の幸福と夢を、ついにつかむことが出来なかった。