鈴木克衛鈴木克衛飛行士の郷土訪問飛行
昭和3年4月27日に相馬郡太田村矢川原出身の民間パイロット鈴木克衛氏の郷土訪問が行われた。前年の昭和2年5月に、鈴木氏は郷土訪問を予告し、原町の有志に後援を依頼してきたという記事が民報紙に載っているが、都合により翌3年までズレこんだようだ。当初は4月13日頃に予定したらしい。直前の朝日新聞に、次のような記事がある。
「鈴木克衛氏飛行大会二十日頃に雲雀原で』〔既報の相馬郡太田村出身民間飛行士鈴木克衛氏は処女飛行として来る十三日郷土訪問をなし一応仙台に至り二十日頃郷土人士の後援の下に原町雲雀ケ原において飛行大会を催すことになった、なほ太田村長藤田直巳氏を会とする鈴木氏後援会では各種団体と交渉して準備を急いでゐる〕(昭和3年4月10日朝日新聞福島版)
この記事は「「観衆七万熱狂朝日機の有姿をさん美」という記事の下に消息がある。
当時、航空思想を全国に啓豪していた朝日新聞社の社機が、信達地方の人々の待望に答えて、福島郊外の瀬上町幸橋下流の河原に飛来した。また郡山で開催中の商工博覧会にもアトラクション飛行した。その記事のついでに航空関連として紹介されたものだ。
ところが4月9日に、藤田町の大野飛行士の郷土訪問飛行に同乗した際に、墜落事故に遭遇してしまった。
「離陸の刹那 飛行機墜落
郷土訪問飛行の大野機大破したが搭乗者は無事」との記事の中に消息がある。
〔伊達郡藤田町出身二等飛行士大野資氏(二八)の郷土訪問飛行は同町の熱狂的歓迎を受けて九日福島号に操縦士鈴木克衛氏と同乗し立川飛行場を出発して同日午後四時二十分歓呼の声に迎へられて同地に着陸し同五時二十分原ノ町雲雀ケ原飛行場に向ふぺく出発約三十間程滑走し離陸し十メートルの上空に到った際機関に故障生じて付近の畑中に墜落し機体は大破したが両飛行士は擦過傷を負ふたのみで生死には別条(※別状)なく山野警察医の応急手当を受けて目下同町旅館観月楼に収容寮養中であるが次回飛行は目下の処予想がつかない〕(昭和3年4月11日民報)
しかし軽症だったようだ。かくして、ついに鈴木氏の郷土訪問飛行は実現した。
「鈴木氏の郷土訪問飛行成功/廿七日雲雀ケ原で妙技/古川嬢も応援飛行』
〔相馬郡太田村出身飛行家鈴木克衛氏の郷土訪問飛行は同地方人が待ちこがれて日々その飛来を待居りしが種々故障のため予定に狂ひを生じ延期しつつありしが二十七日午前十時鈴木氏及び加藤今朝治氏同乗の飛行機は原町の上空に雄姿を現し同町を数回飛行を試み無事雲雀ケ原に着陸し小憩の後来援の女流飛行士古川節子嬢、加藤今朝治氏等数回に亘り鮮かなる飛行を行った〕(昭和3年4月29日民報)
来授の女流飛行士古川節子とあるが、これは平出身の古川きくのことではなかろうか。
朝日新聞福島版の昭和2年6月2日の記事に「平町が生んだただ一人の女飛行家吉川きく子」というのがあって、次のように紹介している。
〔◇・・平町が生んだただ一人の女飛行家吉川きく(二二)さんのことは本紙既報の如くだが家族連や親戚の反対を退けて今回の栄誉を得るまでには人知らぬ涙ぐましい苦心の跡を刻んでゐる
◇・・きくさんは六歳の幼時母に死別し父多吉(六五)の手一つ愛育された、平第一小学校を優等で卒業すると上級の学校を志望したが兄妹が九人もあるので学資の関係からこの念願は容易に達せられさうにもないので平町の平陽女学校に入ってしばし裁縫のけいこに余念がなかったたまたま妹の改子さんが東京中央工学校女子製図科を卒業し日立鉱山に勤務するを待って予てあこがれてゐた飛行家たるぺく決心し父や長兄多一君等の反対も次兄の一三君等の応援で漸く緩和されて面倒な身許式受証や契約証をもらってやんと伊藤飛行場の練習部に入ることが出来たのであった
◇・・数多男子の練習生の中にあっての研究や練習には人一倍の苦悩があった、この間にはまだまだ種々の誘惑があったに相違ない、これをよく乗切って今日あるを得たのはきくさんの、意志の固さを語るものでなくてなんであらう、多望な女飛行家の上に幸あれ(写真は飛行服のきくさん)〕

img146原町の雲雀が原に来援して応援協同飛行を演じた古川きく
5月19日には「大野飛行士郷土訪問を決行」という記事が朝日新聞福島版に載っている。

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