原町飛行所8鵜野開場式にて 昭和11年11月

原町飛行所8鵜野開場式にて 昭和11年11月

雲雀ヶ原からラジオ実況中継

昭和十一年五月に石川組原町製糸所工物主の石川保次郎が死去した。石川は多趣味の文人だったが、いち早くアメリカからラジオ受信機を購入して番組放送を楽しんだ。相馬農学校に最新式の六級スピーカーのラジオを寄贈してもいる。
仙台放送局からラジオ電波放送が開始したのは昭和二年だ。原町には巨大な無線電信塔が存在したが、これは長波の国際無線施設であり中波のラジオとは無縁である。すでに廃局して二本の鉄柱が鳩ヶ谷のラジオ用に移転された。
佐藤政蔵の息子宇田道夫がHK(仙台放送局)の職員であったことから、相馬野馬追を何とか全国に実況中継できないものかと思案し、昭和十年から計画されたが、十一年七月にはついに実現した。
騎馬の集合地点近くに一ヶ所と、本陣山の軍者陣屋前に一ヶ所マイクをそなえ付け、雲雀ヶ原の東西二地点に中継ポイントを設け、アナウンサーが祭典の様を実況中継した。
野馬追のラジオ全国放送は昭和十五年にも試みられたがこの時は仙台放送局が昼間録音し、即夜放送した。(昭和5年6月30日東日)
長年の懸案だった原町飛行場が開場したのは昭和十一年秋のこと。大正八年と十一年には、所沢の陸軍航空隊が飛行演習を雲雀ヶ原で挙行しているが、昭和十一年には仙台の第二師団航空隊がやってきた。
十一月、飛行場の開場式に続き、機関銃の爆撃演習や実弾射撃などが行われ、原町は新たな軍都としてスタートするにいたる。
翌十二年には、そっくり町が土地を提供して県営飛行場となった。
昭和十一年という年は二・二六事件の起きた年だ。
四月に田中製糸の女工四百全名が突如馘首された。田中製糸とは、昭和九年に閉鎖された石川製糸の施設をそっくり譲り受けた日東製糸系の傘下企業で、前工場長の石川保次長は、この悲しい知らせを死の直前に聞いたに違いない。最後の日、石川は東北学院長シュネーダーの日曜礼拝説教をラジオで聴いていたという。
労働争議が懸念されて特高警察がストライキを警戒した。そんな時代であった。
町長は十一年から十九年までは堀川一成。十一年には県の蚕糸試験場が原町に設置され翌年桜井の地に立派な施設が建設された。

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