事変下の野馬追
中国の地域紛争から世界を相手の戦争に拡大しつつあった昭和十三年、日本国内では連戦連勝のイメージを持った国民が旗行列や提灯行列を操り展げ戦勝パレードで祝賀した。
しかし戦争の長期化は綿製品やガソリンの不足など物資欠乏をまねき、国民生活への影響が出てきた。
野馬追を前に原町新町には商盛会連盟という団体が出現。雑貨、呉服食料、履物、金物、裁縫など十二店が一団となって福引き景品付きの大売り出しを始めた。
期間は六月二十九日から七月七日まで。
一等白米一俵(十本)
二等銘仙一反(三十本)
三等竹行李(六十本)
四等バケツ(百本)
以下七等まで三千本、空くじなし。*(七月一日夕、「原町短波」)
しかし時局の反映か、野馬追は赤字で収入が減少したという。
かつては臨時列車まで増発して集客した野馬追だったが、戦果報道のかたわらで原町紡織は好調だが女工不足で伸び悩み、日東田中製糸の閉止や、統制経済の影響など、町の疲弊は暗くしのび寄っていった。
ふるさとから戦地へと駆り出たされた壮丁たちは、実は中国で泥沼のような戦いの中にあった。
銃後では、戦地の将兵を慰問しようという国民運動が奨励され、町の元老佐藤政蔵は昭和十三年に「歌行脚」「将兵慰間 歌の便」の二冊を出版。
「主は戦地、銃とるひまに
わたしや重稲の稲をかる
倅(せがれ)出征、阿爺(おやじ)は銃後
野良の仕事に、若返り
けふは漢口、一番乗りと
孫は勇んで、運動会」
とうたっているけれども、実際には太田村出身のある兵士は、南京陥落の作戦に従軍し、揚子江沿いで、大量の中国人をみづから殺傷する虐殺の現場を体験していた。(大月書店の「皇軍うんぬん」の書にもインタビューが収載されている。わたし自身もインタビューしたが、初対面での取材で突然号泣しだして驚いた。そのトラウマは金婚式をすぎてまで家族に言えないでいる罪の意識によて人生の終りまで深い傷のトラウマを遺している事実を知って衝撃だった)