昭和7年に、県民の寄付金による陸軍愛国福島号が雲雀が原に飛来した。
すでに満州事変が勃発し、中国の広大な沃野を日本の支配下におくための銃剣を先頭にした侵略戦争が始まっていた。
関東大震災によって疲弊した経済は、欧州大戦の漁夫の利的な景況で復興したかに見えて、実はゆがんだ世界経済の、局地的な繁栄だった。つづく昭和初期の世界恐慌を経て、戦争景気以外の実質的な経済的な安定と繁栄ではなかった。
土地もない。原料もない日本が求めたのは、隣国の政治的不安定な満州地方だった。
その尖兵として、とうじ布張り複葉機が主流だった航空軍事の世界に、ドイツの設計による全金属製の強力な爆撃機が制式採用された。陸軍88式爆撃機である。
福島市信夫グランド(野球場)で命名式を行ったあと、西白河郡の矢吹が原めざして飛び、さらに原町の飛成が原に飛来して、県民の前に直接披露された。
雲雀が原の北の入り口に位置する太田村天狗田という地区を、陸前浜街道が南北に走っている。そこの幼児たちは「飛行機が来る」と聞いて一斉に駆け出して行った。
当時3歳か4歳になったばかりの私の母親も、子供たちについて行ったという。
「飛行機っちゃ、猫みたいだなあ、と思った」
プロペラを正面からみると、立派なひげのような印象だった。
金属の輝き、田園風景のなかに突如あらわれた、大きなおもちゃのごとき物体。
それが、幼い目に映じた「福島号」の姿だった。
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