IMG_4812原町飛行場整備軍属新妻幸雄さん。

原ノ町駅を出発する昭和19年10月18日朝の山本卓美隊長には、12人の原町生まれの整備員が同行していた。特攻隊員ののる二式複座戦闘機「屠竜」の整備をするために。知られざる特攻の陰に、戦争に生きるしか選ぶ人生のなかった男や女のいたことを。父親と同じ大正14年に生まれた原町の先輩たちが生きた姿を追った。いま90歳の、生きた歴史の最後の証人の証言を根こそぎ拾っておきたい。今夏。
5月29日の土曜日に取材した新妻幸雄整備員は、70年前に担当した増田良治少年兵の思い出を語ってくれた。写真でしか知らなかった増田隊員の、素顔の思い出を70年ぶりに90歳の新妻氏から聞き取って、ひとりひとりの、このようにしか生きられなかった若者たちの運命をおもって、なまなましい人生と交差した。時を超えて、原町の空を飛んで訓練に明け暮れた彼らの、具体的な世界に一歩ちかづいた。特攻パイロットのうちの一人は朝鮮出身の士官。担当した整備員の二人も朝鮮出身であることを新妻幸雄さんから聞いた。知覧での「蛍」の逸話と同じ、映画「ホタル」の特攻兵の生き残りのエピソードと同じ状況が原町にもあったことを、記録せざるべからず。
山本隊長以下勤皇隊の12機とフィリピンまで同行し、特攻出撃を見送った整備軍属たちは12人。その一人だった新妻幸雄さんは90歳。大正14年生まれだ。高平村生まれ。高平小学校高等科を卒業した14歳で太平洋戦争の当初に原町陸軍飛行場に軍属として就職。整備係りとして働いた。原町飛行場は熊谷飛行学校の分教場として開場したが、翌年の水戸戦技学校と戦闘機専門の明野飛行学校の時代を経験した。さらに鉾田飛行学校の原町飛行場整備員として、特攻隊「勤皇隊」の二式複座戦闘機の少年兵増田隊員の機付となって、フィリピンまで同行した。その行程は、山本隊長が母親への形見の軍隊手帳に記した手書きの地図のとおりのコースである。

勤皇隊二瓶隊員の日記
勤皇隊二瓶少尉は、青森の下北半島田名部(むつ市)の出身。戊辰戦争に敗れた会津藩が下北に移封され、斗南藩三万石を名乗ったときの会津藩士の子孫。特攻出撃直前の十二月五日、父宛に次のような手紙を出している。

「原町を出たあと台湾を経由、十二月三日フィリピンに向う。空輸間、降りた飛行場に於いては、特攻隊に於いては、特攻隊の名において生神に対するようなもてなしを受ける。ただただ感激し、必ずや撃沈との意気に燃えております。私の飛行機は五号機ですから、映画にでもでたら武者ぶりをみてくださう。このあと戦地からの手紙は着かぬかもしれませんから・・・・・。」略

新妻整備員の思い出。
マニラに着いてから、米軍の猛爆撃の洗礼を受けた。特攻出撃を見送った後に、もはや彼ら整備員たちのカエル飛行機はなかった。海軍の重爆撃の帰還に拾ってもらって、からくもフィリピン戦線から日本本土まで帰り着いた。途中、台湾から中国本土を経由して帰ったという。
日本についてすぐ、年末の12月のうちに兵士として入営させられ、鉾田飛行場の整備兵として、あらためて「兵士」となった。

戦後は製塩会社に勤務したり営林署に勤めて生計を立ててきた。
「慰霊祭にきた増田良次さんの遺族が原町に来た時には、わたしのアルバムから、写っている写真はそのたびにあげてしまって、ここにはない。」
増田さんという人は、ほんとうに優秀ですばらしい人でした。
マニラ空襲のときはすごかった。
フィリピンまで行って、勤皇隊全員を見送ったが、私らの帰る飛行機はないんです。
海軍が内地に戻る重爆撃機に、拾ってくれたおかげで帰れた。
制海権も制空権もアメリカ軍に支配されているので、台湾からいったん中国本土を経由してから日本本土に帰って来た。
原町では、今野酒屋の長英さんと一緒でした。

今野長英さんの長男晋一氏は原ノ町駅前のセブンイレブン店を経営している、かつて青年会議所の仲間で顔見知りだ。
店頭の10円コピー機で拡大コピーして、晋一氏にさしあげた。
「この写真は原町飛行場の地元軍属が写っていて、君の親父さんがいるって聞いたが、どれだろう?」彼はすぐ、「これだね。よく似てる」と指摘。
雲雀が原に集まった地元の少年軍属たち。飛行場の青春。背後にはやがて陸軍特攻でもっとも多数使用された99式襲撃機が並んでいる。戦争中ではあるが、日本の地方の男子の、無邪気で健康的な笑顔が輝いていて美しい表情なので、こんかいの展示会ではぜひ市民に紹介したい一枚だ。

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