展示会場にて 安藤慈氏の話
初老の男性が一人、熱心に展示会場をながめている。あまりに長時間なので声をかけると話してくれた。
「私は戦闘機乗りだったんですよ」
安藤慈というのがその人の名であった。
「私の出身は比曾(※原町の西の相馬郡飯舘村のさらに奥にあり伊達郡川俣町に接する西北境の地区)でね。年に一度、親の葉か参りに替えるだけです。友だちを(原町)駅まで送って来た帰りで」
(駅前にある)カツミヤ原町店の入り口の看板に「原町陸軍飛行場」の文字を見つけて入ったのだという。
「私はね、原町飛行場が出来た時、宮城の飛行場から飛んで来たんですよ」
九五式練習機という、黄色い“赤とんぼ”でね。原町にいたのは短かった。五機編隊位で、飛行機を運ぶ役目でしたから。ですからよくは覚えてはいないが、こうやって写真をみると、当時の飛行所の様子を少しずつ憶い出すね。
あんたのような人が、こういうの(写真展)やってくれると本当にありがたい。私らの同期は、みんな死んでしまって、生き残りは二、三人しかいない。
私は戦闘機乗りで、特攻隊の直掩は三十回ぐらいやりました。でも、目標まで届けたことはほとんどなかった。半分行かないうちにわんわん敵機に襲われてやられてしまう。
マニラ爆撃の時には敵機を二機落としました。確認はしてませんが落ちた手ごたえはあります。あの時、機体に地上からの機銃を十数発受けましたね。よく生きて帰れた、けがはしなかったです・
インパール、スマトラ、パレンバン、バタビア、インド進攻、ずいぶん作戦には参加しました。
原隊が台湾の高雄にありまして、そこで中野磐雄君と会ったことがありますよ。あすこは海軍と陸軍が一緒の飛行場にいましたから、新しい隊員が来ると「福島県出身の者はいるか」なんて声をかけたんだ。そしたら「私、福島県出身です」という。しかも「原町です」という。「そうか俺も原町だ」と言って、その晩いっしょに呑もうということになって楽しくやりました。中野さんは「僕はこれをやります」といってウイスキーを持ってきた。私もやってみましたが、きつくてね、私は日本酒で。
台湾で飛行機を貰いに来ていた。それからフィリピンに行った。十日間ぐらい滞在しましたか。
その時何を話したかって? 「原町でも飛行場が出来たそうだ。空襲されるかもしれないなあ」と、中野君は心配しとりましたな」
特攻隊で体当たりしたということは十九年の末のことで、新聞で見て知った。
私も最後は特攻を命ぜられて鹿児島の鹿野から八月十九日に出撃する予定でした。鹿野は知覧の対岸にあります。
その前に休暇で実家に帰ったんですがね、オヤジは知っていたようでした。
ワカッテイタ ガンバッテヤレ
葉書にこれだけ一行書いて寄越しました」
安藤慈氏は、相馬郡飯舘村比曾生まれ。父の仕事の関係で郡山に移り、安積中学を出て志願して陸軍の飛行機乗りになった。本土の各飛行学校で操縦を教える教官をしたのち台湾の高雄へ。
「それでは六航軍(第六航空軍)ですね」
「ええそうです。海軍と一緒でした」
「じゃあ富永中将の敵前逃亡のことはご存じですね」
「ああ、よく知ってます。あの頃有名でしたからね。司偵で飛んできましてね。
当時飛行場ではガリ版刷りの新聞が出ていましたが、富永さんは新聞で、最期には勝つんだ、大逆転のために来たんだというふうなたいへん景気のいいことを言っとられました。ですが、みんな知ってましたよ、ああ、あれはフィリピンがダメになって独りだけ逃げて来たんだって」
第四航空軍司令官富永中将は、東条英機の側近であったが、自分も最後の一機で必ず諸君の後に特攻すると激励して多くの陸軍特攻隊を送り出した。だがフィリピンの戦況が悪化したため最後の一機に乗って台湾へ逃亡した。(高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」)
安藤氏は、最後に日本の現在の防衛力をもっと増強すきだ、と述べた。
太平洋戦争の渦中を生き延びた人間としての、謙虚な回想のそれが結論であった。
私の意見は違うが安藤氏の人柄にはひかれた。きのう飛行場関係者の慰霊祭がありました、と申し上げると「ほうそうですか。知らなかった。だいぶ死んだのでしょうね。私らの同期で生き残っている者はほとんどいない。二、三人だけです」
という。
「おやもうこんな時間だ。ずいぶんここにいましたな。お邪魔しました。私は明日帰ります」
「お元気で」
安藤慈氏は席を立った。