北辺の落日
「民族の活力は、天皇制軍部官僚、資本家、地主のための不断の侵略戦争に投入され消耗された。」
岩波新書「日本の歴史下」
昭和二十年八月十五日、玉音放送が戦争終結を宣言したはずであった。
しかし、中国大陸にいた日本人にとっては八月十五日は「ドサクサ」の中の一日にすぎない。
彼らにとって忘れがたい日は八月九日。すなわちソ連軍の突然の進撃という新しい危機に直面した日こそ、彼らの戦争の始まりだった。
南方戦線に精鋭兵を引き抜かれて総入れ歯状態の関東軍は、満州に生活基盤を持つ在留邦人を見捨てて遁走した。
すべての部隊がそうだと思って居た。
独立混成第三師団が、数奇な運命をたどって中国の内紛のために終戦後も無国籍的な軍事行動を余儀なくされたことは既に知っていたが、それとは別に独立混成第二師団(響き兵団)の守備する内蒙古においてソ連軍と交戦して、これを防御し四方の在留邦人を無事に内地に帰還させている事実を最近知った。
高野与一という人物が、独混二師団の歴史をまとめて「雲遥かなり」(昭和五十六年初版)という本を出版している。
これをもとに週刊朝日編集長稲垣武氏が「昭和二十年八月二十日」という本を書いている。昭和五十七年刊行。
同書の後記に、高野さんが稲垣氏のあてた私信が紹介されていて、その一部は独混二師団の終戦時の先頭に参加した全将兵の感慨を代表していると思われるので、ここに引用させてもらおう。
「前略
けさ、満州の日本人孤児たちのテレビをみました。あの悲劇だけは、私たちの生涯に誇りうるものがもしあるとすれば、この一字だけではないかと思って居ます。…」
一月二十七日、原町市青葉町のタカの与一さんのお宅を訪問して、半一お花っしをうかがった。
「あの戦争で障害に誇る一事」を持てた人は幸運であったとしか言いようがない。
計り知れぬ人生の命運を、さまざまに彩りながら、戦争はともあれ終わった。
平和な時代といいながら、はたして我々は平和を維持するために努力をしているのだろうか。
昭和史の実際を、訪ね歩く旅はまだまだ続きそうだ。この旅が、新たな暗闇への道へ迷い込まぬように。歴史を引き戻そうとする力に抗しきる最初の世代となるために。
われらの時代をこそいとおしみつつ。