しゃぼん玉の唄
現代国語の教科書に、金子光晴の「しゃぼん玉の唄」という詩が載っている。わたしの高校時代に筑摩書房の教科書で読んだ。高校卒業十年目にして同じ詩にめぐり合わせた。今度は教壇から教える立場で、教科書の詩を解釈する。
しゃぼん玉は
どこへいった。
授業を進めながら、私自身の思いが果てしなく続く。
北はアリューシャン列島、南はソロモン諸島、西はハワイに、東は蒙古、インドまで、名の通り大東亜戦争では、実に広範囲にわたる地球上に、無数の日本兵は飛ばされたその世界地図としゃぼん玉とがイメージを重ねる。
私事になるが。生前会ったことのない妻の父親は、シベリヤ抑留の体験者だそうで、バイカル湖のほとりまで連行されたという。復員できたのは昭和二十四年のことで、妻の母で詩人の吉田ノブは、詩集の中で次のように書いている。(日本現代女流詩人叢書45集)
「 復員
日に焼けた青黒い顔に
糸で修理した眼鏡をかけて
栄養失調でむくんだ体を
つかい果した服に包んで
破れ長靴をひきずりながら
この祖国に戦争の荷を 今やっと降ろす夫

紙屑ばかりの駅前で
茫然と立ちん棒となり
言葉にならない言葉で語る夫
五年
貧しい明け暮れの 最後の一日
軍役解除となったわけだが
釈放のない苦役が待っているだけ

微笑んでいたみたが 何の意味もなく
沈黙がかえって物語っているようだった」

また妻の伯父武藤喜吉は、ニュージョージアで負傷し飢餓寸前のところを米軍に収容され、現地とハワイ、カリフォルニアの各地で収容所生活をしてきた。
のん気な時代の住人である我々は、等しく生き残り組の末裔であると言える。わが二人の娘たち、バイカル湖のほとりからの生還者がなければ、この世に生を享けることもなく、それはしゃぼん玉のようにはかない、ありうる偶然の一つにすぎない。
もっとも凝縮した歴史の瞬間を夢幻のごとく想い返すという経験は、実体験を持つ人々だけのものではない。
個人の記憶が、民族の記憶と不可分の時に追体験という歴史の座標が命を盛る。それは私自身が思い出す歴史でもありうる。
昭和史への旅 p84

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