原町空襲と米軍進駐

二十年二月十六日、突如として初の原町空襲があり、原町紡織工場で四人の犠牲者と多数の負傷者が出た。病院には薬品がなかった。
七月、米機動艦隊が福島県沖に進出して空襲され、鉄道がねらわれ機関士が負傷、死亡する。町民は艦砲射撃を恐れて山中に疎開したりした。そんな中でも数人の騎馬が集まって野馬追をしようという者があったが、空襲警報に散らされてしまったという。
続く八月九日再度の無差別銃爆撃空襲によって萱浜と太田で三人が死亡、十日の機関区空襲で六人の鉄道員が殉職した。このほか駅の乗客一名、飛行場で少年兵一名が戦死、また岩手の基地から出撃した特攻機が原町飛行場近くの山中についらくして戦死した。
八月十五日の終戦の日を境に、世の中ががらりと変わった。町には空襲のあとの瓦礫や木切れが散乱していた。爆撃でねじれ曲がったレールが原ノ町駅の跨線橋にからみついたままだった。原町紡織工場は七日間燻っていた。
嘘のような話だが、飛行場にはラジオがなくて、航空兵らは近所の農家で終戦の詔勅放送を聞いたという。彼らは一斉に軍需物資をかすめて逃げ去った。
十月、米軍戦略爆撃団の一行が原町近辺の空襲被害の実検のため来訪。武装解除で国民学校の学芸会の模擬刀まで回収していった。
進駐軍第一陣は、陸軍飛行場の兵舎に宿泊したが、そこから電話機を盗む者まで現れた。まさにどさくさの時代。
浜辺では海水を汲み塩を焼く煙が何条も立ち上った。
燈火管制が解かれ、町の一角に野の花を売る店が出た。原町の戦後はこうして始まった。

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