中止されても三百騎の出馬
昭和十九年、時局の重大化に野馬追は一度は中止と決まった。しかし県社太田神社例祭を兼ねて十一日、新田川畦に三百数十騎が勢揃いし、正午近く神旗争奪戦の熱戦が現出。士気高揚の「民謡舞踊大会」も行われた。
十三日は、小高神社例祭にむすびつけて午後八時から大甕村小浜から小高神社境内まで野馬を追い込んだ。
なんのことはない。建前では中止としながらも、実質的に野馬追も野馬掛けもやっているのである。
八月さなか、浜通り第一陣として東京の疎開児童たちが原ノ町駅に降り立ち、駅前広場では大勢の町民が歓迎式に集まった。都会の子たちは原町、鹿島の旅館に分宿した。人々は、いよいよ本土決戦を自覚した。
鹿島出身の渡部善助は、内務省役人斎藤邦吉の姉を妻にして東京で裁縫やタイピスト養成のほかアジア系語学学校を経営していたが、都会の空襲の危険を察して既に自宅を売り払って相馬の地に疎開していた。奇しくも大正時代にいた福島民報社を頼って復職し、支局長記者となって地元の行政記事の取材など相馬地方の報道をすべて担当することになる。
十月、フィリピン戦線では最初の特別攻撃隊「敷島隊」が米艦隊に対して体当たりを敢行した。原町生まれで相馬中学出身の中野磐雄一飛曹が隊長関大尉の一番機に続く二番機として肉弾となったニュースが報じられるや、全国民に異様な衝撃と興奮が走った。
渡部善助は地元の中野の留守家族や同級生、恩師等を取材し、続報を発した。
海軍に続いて陸軍も特攻作戦を開始した。
原町陸軍飛行場では、双発の「屠龍」や単座の新鋭戦闘機「隼」などで特攻訓練が行われた。
山本卓実もその一人だった。七月十八日、原ノ町駅からフィリピンに向かった。彼の日記には「懐かしき原ノ町を去る」「尾しき思い出の原ノ町。さらば、過去を捨てて新しき未来へ」と認めて母親に遺した。
十二月六日、彼は勤皇隊の隊長機として部下とともに米艦隊に体当たりしていった。
翌年六月、雲雀ヶ原から最後の特攻隊が飛び立って行く。