戦時下の決戦野馬追に数万の歓衆
昭和十八年最大の転換点はガダルカナルでの敗戦だった。
アメリカとオーストラリアを分断するという理由で机上の理論を立て、戦略的に重要でもない日本本土から遠く離れたこの島で、大本営は戦力の逐次投入という最悪の戦法をとり、福島県出身の多くの兵が全く無駄に消耗された。
歌舞音曲が禁止され、世の中はますます沈滞した。
雲雀ヶ原では、陸軍飛行場の上空を、練習機、戦闘機、爆撃機などが飛翔し、猛烈な訓練に明け暮れていた。
事故も多かった。
飛行兵を慰問したのは地元の民謡愛好家や国民学校の児童だった。国の守りの兵隊さんと地元有志との間に交流も芽生えた。
原ノ町駅が新築落成した。物資不足の折り、鉄筋の変わりに竹筋を入れた四本の柱がスマートな外見を形成していた。
飛行兵たちも多くはこの駅を乗降して移動した。もちろん出征兵士たちも親類縁者に見送られてこの駅から戦地へ出発して行った。さながら駅はドラマの舞台だった。
春四月、相馬郷土芸術振興会が興亜馬事会の招きで七日夜日比谷公会堂で愛馬の夕に出演。相馬民謡と野馬追剣舞を披露した。
同じ日、原町近辺四ヶ村の鍛錬馬が三百頭、夜の森下の馬場に集合、町内を騎馬行進した後、遠乗りして太田神社に参拝。原町憲兵分隊と警察署員有志も乗馬で参加した。
例によって野馬追臨時列車が出たが、当日は切符販売が制限されるので、「近距離の見物人は徒歩か自転車で」と呼びかけた。
カメラ携行はもちろん厳禁だった。
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