ハワイ移民たちの開戦

十一月初旬。三日まで「戦後風俗写真展・秋市にサーカスが来た頃」という展示会をやっていた。四日は、原町出身の漫画家島充氏らが共に市役所を訪れ、社会福祉協議会へ、チャリテイー収益金を寄付し、市長と会快談する所を取材。六日に福島まで行き、七日朝、東北新幹線に初めて乗った。
母の縁者がハワイから観光旅行にやって来るので歓迎のため、母と娘と成田まで行った。
大正から昭和にかけてハワイや南米に移住した福島県人は多い。
特にハワイ移民たちの場合は昭和十六年の真珠湾空襲以後、身の置き所のない生活を余儀なくされた。
「あの朝、これは演習ではない、日本軍の攻撃だ、外に出てはいけない、というラジオの放送を聴き、まず心に浮かんだのは隣の人に何と言って挨拶したらいいのか、という困惑でした」
太平洋戦争の開戦をどのように書こうかを考えて、結局ハワイの移民者たちの立場から描こうと思った。最も端的に日本および日本人の立場にあるのが彼らだ、と思ったからだ。
しかし未消化のまま雑然と私の中の棚にいr歩いろなものがのっかっている。
とにかく様々なものを探し出し、感じてみようと思って一年は暮れようとしていた。
成田はずっと雨であった。長くロビーで待った後、彼らサム・O・ヒロタ夫妻は国際線のゲートから出て来た。
「ナイス・ミーチュー」
「ヤア、コンニチワ」
ヒロタ愚妻は日本語は苦手と言いながら、上手に美しい日本語を話す。移民たちはすでに二世三世の時代である。
握手した掌は大きく、あたたかく、万感の思いがそこには込められていた。

ハワイ諸島から二千四百キロ西方海上に小さな環礁がある。ミッドウエー島である。
小さいが太平洋の戦況を支配する戦略的に重要な位置にあるため日米海軍の決定的な海戦の舞台となった。
当時世界最強であった日本の虚空戦力は、守りを軽んずる伝統的な欠陥のために主力空母を撃沈され、壊滅的打撃を蒙った。
この海戦に参加した体験を持つ原町市議会議員高藤義春氏は、当時の戦艦陸奥の乗組員だった。
「加賀や飛龍の艦載機搭乗機員が海に浮かんでいるありさまは悲惨だった。パイロットも帰るべき空母が沈められては海に不時着するほかない。
あれは本当に軍の奢りによる敗北だったね。」
実感こめた言葉であった。戦況は、ここから逆転して行った。

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