幻の皇紀二千六百年
昭和十五年になって、雲雀ヶ原では中村原町浪江の三署管内木炭自動車講習会が実施指導された。(十五年二月二十五日東日)
三月には(三月二十日東日)、原町駅を起点とする客馬車まで登場した。
六月になると、雲雀ヶ原の一角に熊谷飛行学校原町分校が出現した。このための用地は、前年から土地収用され、約百戸の農家が移転のやむなきに至った。
飛行学校とはいえ施設が全部完成してはおらず、滑走路となる草原は、町民の整地作業の奉仕労力を得て整備された。
赤トンボと称された複葉の練習機が編隊飛行するようになる。
陸軍飛行場と共に、仙台第二師団から憲兵隊の分隊がやってきた。飛行場の警備のためである。
昭和十五年は、伝説上の神武天皇が即位して2600年目に当たるとしてから一大記念行事が全国で繰り広げられた。軍国日本はもはや歴史を超越して神話がかっていた。
町民の楽しみだった地元の名門相馬農校の運動会にもこの時代の軍国色が色濃く反映された。夜ノ森公園の会場中央には、大きな地球儀が形取られ、日本が世界を支配せんという強烈な国家意志が如実に浮かび出ていた。
学校は兵士の生産工場であった。
旧相馬藩主恵胤公の弟甫胤公(東北帝大文科三年在学)が野馬追の総大将に出馬した。同氏は学習院時代からの野球プレーヤーで、相馬滞在中は相馬中学の野球部コーナーをかって出た。
七月十二日の本祭は、夜来からの豪雨がからりと晴れて泰祝紀元二千六百年の相馬野馬追大典が挙行され、総大将は文目の背立で祭に臨んだ。
廃止されていた原町無線送信塔が、航空無線の研究のため東北帝大の電気通信実験所として甦ったのはこの年。
娯楽や娯楽は徹底的に抑制され戦時国民生活の新体制案である奢多禁止令が報じられる記事の隣に野馬追の記事がある。カフェー業者が収集され、お銚子一本が五十銭値下げて四十銭にせよとの訓示であった。
庶民の楽しみに、とやかくお上が口出しする時勢だ。
十二月、南相の青年学校十校と相馬農校蚕学校は合同で軍事演習を行っている。
軍人たちの指導で南北西軍に分かれて雲雀ヶ原で遭遇戦を演じ、新田川をはさんでの攻防戦を繰り展げた。これには陸軍飛行場の飛行機まで参加協力した。