原町飛行場は昭和12年、県営に移管された。しかし原町当局の熱心がそうさせたが県は乗り気ではなかったと当時の新聞にある。

原町飛行場は昭和12年、県営に移管された。しかし原町当局の熱心がそうさせたが県は乗り気ではなかったと当時の新聞にある。

歴史の創作だった野馬追千年祭

銀杏並木のある駅前通りの光景は昭和十二年から出現した。
大橋町議が苗木を町に寄付したものが、うっそうたる町並みをなした風景は戦後まで原町駅前の特徴になった。(昭和三十年に道路拡張のために並木は伐採された)
日中戦争勃発、人民戦線運動の大検挙などで軍国化への傾斜にのめり込んでいった昭和十二年、原町最大の企業原町紡織工場に、原町初の鉄筋コンクリート建築の新工場が増設された。
原町紡織は軍需工場の指定を受けて、アジア圏にベルト用キャベシなど輸出するドル箱企業として地域経済の牽引役を果たし、雲雀ヶ原のかたわらでもくもくと黒煙を吐いて稼働した。
濾溝橋事件は七月七日に起きているから、ちょうど野馬追祭の直前だった。
「相馬全土を挙げ野馬追一色に」「近づく一千年祭典」と新聞報道にある。
軍国日本の威風を示そうという郷土民の意気は、新機軸の企画も打ち立てた。
東西軍に分かれての模擬戦や、古式やぶさめの実演などが演じられた。
多くの俳人が、この記念すべき野馬追千年祭を目当てに参集し、彼らの夥しい作品は新聞雑誌に発表された。
祭に土産はつきものだが、有名なのが堀池雲岳。彼は大正十年に七十歳で没しているので昭和には生きていない。「どどはん」あるいは単に「馬書き」と近所の人は雲岳を通称していたが、どどはんとは士族の偉い人への尊称で子供たちは「頭の良いおじいさん」という程の意味で理解していた。だが、石神村信田沢の生家近くの菊池某なる人物が雲岳の名を騙って贋作を描いて売っていた。
菊池は雲岳の弟子でも何でもない養蚕教師だったが、雲岳の名を刻んだ印を作って暇さえあれば駒絵を描いていた。馬を後ろから描く筆法は雲岳と同じで見分けがつかなかった。
しかし被害は「実に一千五百人 野馬追を利用した詐欺漢」として、この年、ニセ雲岳は御用となった。

7.15.民報 野馬追を食ふ不届きな詐欺漢捕る 菊池庄五(48)

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