東北大冷害で寒い夏
昭和九年は東北の農村は大凶作で、娘身売り、農家の借金累積、欠食児童、行き倒れ、自殺、極寒の惨状など悲惨なニュースに明け暮れた。
この夏は寒かった。
七月十一日の宵乗祭はあいにくの糸引くような小雨が振り出したが、総大将の旧藩主代理堀内秀之助を筆頭に、甲冑に身を固めた騎馬武者たちは荘厳な渡御の式を執行した。
十三日には県産婆大会が原町公会堂で行われ、参加者は福島県を代表する祭を大いに楽しんだ。
民謡振興会長岡和田甫は、例年の流れ山、二編返しの外に古くから相馬に歌われた相馬甚句に新しく振り付けをなし、歌詞も新作を加えて観覧者の喝采を浴びた。ことに踊りの天才といわれた九才の菅野とし子嬢が人気の中心だったという。
前年には民謡の大家安宅千代女史の相馬流れ山その他の演奏があり、この時代、相馬民謡は何よりの娯楽の中心であった。
昭和七年に世を騒がせた事件に、南の小高地方の井田川干拓地を舞台に、福浦村争議というものがある。石神の政治家太田秋之助が心血を注いだ干拓事業だったが、深刻な小作争議が起こり、地主側と小作農民との間に暴力事件がおこり、裁判にまで発展した。農民らはムシロ旗を掲げて小高から福島まで歩いて行き公判に臨んだ。
福浦村には農村の自衛のための消費者運動が根付き、先進的な気風を示した。
また小高町のクリスチャン一家からは鈴木安蔵という憲法学者が誕生している。鈴木の代表作「日本憲政成立史」(一九三三)などがあるが、昭和八年には「憲法の歴史的研究」(大畑書店)という著作が出版されている。
しかし内容は厳しい検閲に引っ掛かり、伏字ばかりの文面となった。
「革命」や「共産党」、「プロレタリアート」など社会主義用語や、皇室批判等は徹底的に削除された。
鈴木は京大で河上肇に師事し、また宮城の吉野作蔵に学恩を受けマルクス主義の立場から明治憲法制定史の研究を進め、戦後は民間から新憲法草案の策定などに関わった。