一年に二度あった町長選挙
昭和八年は原町町長選挙が二度行われた。
一回目の選挙は、前任者志賀隆明を推す再編派と、佐藤貫良を推す改選派とが対立し、その間に中間派が介在し、その動向で運命が決まるため、両派とも必勝の確信なく町会はすでに三回も選挙を延期。この時、大橋勝治町議が死去して岡和田甫がくりあげ当選。岡和田は佐藤貫良を推していたので佐藤優利と見られたがフタを開けてみると中間派の門馬直記が改選派の佐藤と同点で、年長の門馬が町長に当選した。
門馬は大正時代から旧家の商人ながら町長出馬の噂があったがその度に否定。今度も就任を受諾しないだろうと言われていたが、予想を裏切って就任。しかし病気を理由に二ヶ月で辞めてしまう。
後任には松永七之助が就任した。ところが、松永はもともと商人で、政治に興味はなかったが、身内の阿部市助に説得されて町長出馬を納得した。出馬にあたっては、いくらかかるのか、と阿部に尋ねるとポンと千円を手渡したという。
阿部はこれを町議のほとんどにばらまいたが、のちに買収の罪で逮捕され、この間の経過を警察にぺらぺら喋ってしまった。
たちまち町議の多くが逮捕され、松永町長も警察の追及を受け、ついに五ヶ月にして町長を辞した。
町長といっても大した利権はなく、名誉職のようなものであったので、もともと商人だった門馬道記も松永七之助もあまり町長の椅子に未練はなかったであろう。
町政自体も予算規模が小さく、宿場町から発達した原町は商売に精出す方が魅力的だっただろうと思われる。
衆楽園と秋市
商人の町原町の名物の中には衆楽園と秋市がある。
衆楽園とは原町の中心繁華街に存在した町民広場で、軽業や見世物、サーカスなどの興行が行われ、テント張りの活動写真などで盛夏の野馬追祭や、晩秋の秋市は賑わった。
昭和八年は全国農村が不況のため疲弊し、匡救事業という景気刺激の公共工事で桜井街道の整備などが行われていたが、この年の野馬追はことさら盛んで、衆楽園も転業や見世物小屋の興行物や香具師の口上に群集は群がった。
人気の流れ山踊り、田植え踊り、宝賊踊りの舞台が設けられ、原町特産の檜細工の展示会も行われた。
戦前の野馬追は臨時列車が出たり、切符を求められる群衆が駅前に列をなしたという。
瀬峰、石巻、神俣、郡山、信達、仙台、平、双葉、石城、山形、栃木、茨城など各方面からの客があふれ旅館は既に満員となった。
一方、秋市とは、「山鉾市」が定着したもので、年末を迎える近郷近在の人々が日用品を求めて集まる、いわば年に一度の特設デパートであった。
この時にも興行物のテントが並び、三島神社や衆楽園が賑わった。
秋市は、小高、鹿島、中村でも行われた。浪江では十日市というのが有名である。