鞍懸山レーダー
 富岡町には東部一七四〇部隊(通称電波部隊)が配置され、西原地区にレーダー基地を楢葉町の繁岡地区の鞍懸山(標高一〇〇メートル)長城にレーダー六基を備えた電波警戒基地があった。
 兵舎は鞍懸山に二棟、西原に一棟あり、それぞれ三二〇名と一〇〇名の兵隊が常駐していた。四六時中、交代で空を監視し、敵機発見の際は、直ちに東京三宅坂の本部に報告していた。
 この電波警戒機は、日本軍が南方戦線比島コレヒドールにおいて鹵獲したものをもとにして造ったものであり、地上アンテナにより受信した三〇〇キロメートル以内の物体をブラウン管に写し出し、視認するもので相当の訓練と技術が必要であったという。
 当時在隊していた菅野義勝(中央)と栗原惣太郎(清水)は回顧する。
 また、米艦載機は、この基地レーダー妨害対策として、大量の電波妨害錫箔帯(銀箔で作った紙テープのようなもの)をまき、レーダーの照準を混乱させていた。その銀箔のテープが、付近の山々の樹間に落下し、キラキラと輝き散乱していたという。

 二十年二月より、県内各地至る処が銃爆撃を受けているが、米機がこの電探基地だけは一度も受けていない。これは憶測の息を脱し得ないが、米機がこの電探基地より発した電波を受信し、逆に誘導地点として最期まで利用していたのではあるまいか。
 二月の原町空襲、および郡山空襲、その後の浜通り各地の空襲時、必ずこの上空を通り去来していたことによってもうかがい知られる。
(富岡町史より)     

 米英連合の機動艦隊部隊から発進した艦上戦闘機や雷撃機が、鞍懸山レーダーの日本軍ビーコンに導かれて日本本土に侵入するために無傷のままにしておいたのと同時に、日本占領の際にみずからの空分のためのレーダーが必要であった米軍は、無傷のままでこれを確保することは戦略的な意味ももちろん当然あったろう。
 仙台に駐屯した占領軍はただちに東北各地の日本軍の武装を解除し軍需物資を押収したのと同時に、鞍懸山のレーダー基地も視察している。この時、相馬農業学校の佐藤教諭が米軍偵察を案内したという。

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