バー・グリーン誕生す 昭和31年

吉川一郎。そもそもの振り出しが無線塔下のアメリカ軍基地でバーテンダーとして働いたのがきっかけ。
幼時を中国で過ごし、周囲がみな外国人だった。中国語か英語でなければ意志の疎通ができない状況で、それが当りまえという感覚だった。
戦後引き揚げてから原町の郊外に設けられた米空軍のレーダー基地に勤め、シェイカーを振ったのがバーテンダー人生のスタートだ。以後半世紀プロの道へ。
独立して店を構えたのが基地廃止後の昭和三十一年四月の事。
「こんな場所に店を出して客が来るのかな、とも持ったものです。当時は周りが民家ばかり。道は舗装してなくて、近所には木工場や葡萄畑など(のちサンホーユー原町店敷地と駐車場)があるだけで、ポツンとうちがあるだけ。当時の繁華街は駅前でした。大東銀行(当時は郵便局)の北側にクローバーという店があり、うちの一年後に「すみれ」が出来た。原町にバーと名の付く店が全部で4軒しかなかった時代です」と振り返る。
開店当時の飲物といえばウイスキーのストレートかハイボール(五十円)だけ。ボールの大瓶が八十円だった。そこへベース仕込みのカクテルも始めたので、色のついた甘い飲物はウケた。
サントリーの屋号がまだ寿屋といっていた。トリスの1ケースが24本。一本でシングル24杯分とれる。米軍基地ではバーのマネジメントもやったから、仕入れからサービスまでのノウハウは身についていた。原価にマージンを加えても、安い酒を提供できた。店が少なかったので、繁昌した。店内で立ったまま呑む人もあったほど。
バーテンダーが四人ほどいた。よその店から、バーテンダーを世話してくれと言われて、同業者が集まったのが原町の業界の始まりだ。
カラオケがブームになるのは昭和五十年代だが、グリーンでは四十年代からレコード会社からプロの吹き込むレコードを直接取り寄せて、カラオケを試行していた。またジュークボックスの導入も早かった。
開店十年後の昭和四十年代に入ってようやく十二、三軒に増えた。以後、増加して平成四年の現在ではバー、クラブなどの総数は75軒ある。
「これからも大人の健全な社交場でありたい」という吉川さん。
平成4年。厚生大臣表彰。環境衛生向上発展に寄与。あぶくま新報より。

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