7月19日 学生列車襲撃
鉄道という現実は最も危険な部署である。戦時中、とくに本土空襲に曝された時期には命を賭けた「最前線」と同じ戦場だった。機関車と機関士は心臓と動脈だった。
双葉高校史学部が平成2年に発行した同部の研究紀要「双葉史学」第16号に、前年から九か月をかけて調査した「相双地方の空襲被害報告」を載せている。
空襲から45年目の作業であり、調査は高校生が短刀したので、祖父母の世代からの聞き取りである。むしろ平和教育としtの実施教育になった。じっくり家人の戦争体験や空襲体験を聞く機会になった。
調査報告は30ページにわたっているが、ここでは戦略的な攻撃の的になった鉄路の被害のうち、昭和20年7月19日の空襲の部分を転載する。
「朝いちばんの原の町平行き上り普通列車のことを学生列車とか通学列車と呼んでいた。前日の乗務を終えて原の町に宿泊した機関士や四名は、7月19日の原の町発の上り普通列車に乗務した。機関士長谷川長吉さん、同見習い佐藤長吉さん、機関士鈴木文雄さん、同見習い鈴木敏夫さん(15歳)、いずれも仙台機関区所属の職員であった。
アメリカ機動艦隊は7月13日、15日にかけての釜石・室蘭への艦砲射撃とその掩護のための東北・北海道攻撃の後、16日の燃料補給、17日東京地域に戻っていた。
18日英空母部隊とともに横須賀海軍基地と東京地域内の他、埼玉、千葉、群馬、栃木、神奈川、東北地方全般の広範囲も空襲を受けている。
普通列車が学生列車と呼ばれるのは富岡駅あたりからだ。その富岡駅に到着したときに空襲警報が発せられた。この時期頻繁に発せられていたとはいえ、乗務員は以後緊張して列車を運転して行った。このあたりからトンネルが多い警戒しながら進んだが名の五ともなく広野駅に到着。そして出発した。最初のトンネル(東禅寺トンネル)を通り過ぎた瞬間だった、と鈴木文雄さんは言う。6時51分のできごと、と記憶している。突然銃弾に撃たれた。飛行機の機影さえ見えなかった。(土地の人の証言によると7機編隊だった)
銃弾は鈴木敏夫さんの胸部を貫通し、即死。
他の三人は銃弾のは編を受けて負傷した。
列車は通行不能に陥り、折木川に架かる鉄橋(今はない)の上で立ち往生の格好となった。編隊はそのご何度も攻撃をしかけてきたが、乗り合わせていた学生をはじめとする乗客らはトンネルに逃げ込むなどそれぞれ避難し、それ以上の負傷者は出なかった。
鈴木敏夫さんの遺体は広野駅にいったん運ばれ、夕方の列車で塩釜の自宅に帰った。
負傷した三名の乗務員は原町町内の病院に入院し、鈴木文雄さんの記憶では長谷川長吉さん、佐藤長吉さんは一ヵ月過ぎてから、鈴木文雄さんは一週間ていどで退院した。

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