鉄道人生の華の時代
小河 衛
●父が正面衝突で殉職
大正元年十二月十日、原町機関庫機関車掃除夫を命ず、日給二十九円銭を給す、という辞令で私は鉄道員となった。
大正二年十二月二十八日、父慎五郎は岩沼駅構内で、東北本線上り列車で出発。常磐線下り列車が進入の際、機関手(原町)は信号を無視して進行したために正面衝突となり、父は車掌として勤務中殉職した。当時、私は十七歳であった。
大正三年五月二十二年、現在の西山旅館に三軒長屋があり、そこに小河、吉田、立原という三家族が住み込んで居ったが、隣の村上という工場から出た火事で類焼に及び、最悪の苦労をつづけた。
大正四年に大甕村大字北原字折ケ沢に、大甕の小浜から古家を四十一円で買い請け、母外子供六名、計七名で生活した。
当時十三区の組合は計二十八戸で、元の無線塔西の堀が境界であり、また現在の伏見稲荷神社は北原堀の北にあり、梨元稲荷神社といい、後日移転した。
また中田(理容店・二見町二目)さんの西には水車で米をついた事も記憶している。
大正八年には、原町機関庫勤務機関手を命ぜられ、後日それが機関区となった。元は、機関庫長などと言った次第もある。
● 機関車運転競技会
昭和四年九月に、仙台運輸事務所の代表として、運輸事務所は仙台・長町・一関・小牛田・原町と計五機関区)仙台管理局主催の、機関車運転競技会の選手として参加。
場所は奥羽線、横手新庄間である。参加県は青森・秋田・山形・岩手・宮城、福島・新潟であり、運よく一等になり、二等秋田、三等青森の順位であった。
昭和八年、仙台に転勤になり、昭和十四年九月には中支那の華中鉄道に志願して、武進件常州機関区に勤務したが、仙台在職中、宮家の列車運転に十時すること十四回。また仙台での競技会では第一回が一等、第二回一等、第三回一等。
第一回は昭和九年十二月。第二回は昭和樹う一年樹う一月二十四日。第三回は昭和十二年十二月に十四日。いずれも症状授与の緋である。
「中国では地雷にも」
昭和十四年九月十五日付で常州機関区に勤務中、昭和十五年三月海南線本牛~呂城間で貨物列車を運転していたところ、地雷にかかりたるも、列車の転覆はまぬがれた事があった。
昭和十五年、天皇陛下の御名代として閑院宮殿が御来中支の折、上海南京間を準御召列車にリレーで常州南京間の運転に従事したなど、内外共に軍に協力したとのことで、昭和十七年陸軍大臣から賜との大きな額を戴き、大切にしている。額は縦六〇センチ、横七〇センチで、内容は皇居を博多織で織物にしたものである。
終戦後、昭和二十八年四月に、第一回国鉄OB会を開催した。場所は、折ケ沢堤の東の草原で、会長に山田栄氏を選び、会員十七名、現在の生存者は西内与市氏と私と二人だけ。現在は、OB会員は富岡法部員共、計五百名と数多くなったが、昭和三十八年には全国でOBは四万五千人となり、姪よ会長小河衛、会長小沢市より本会の目的に協力したとの事で感謝状を受けた。(あぶくま新報・昭和61年2月18日)