高(磐城太田)、小高駅の開業式
「〇原町小高間新駅開業式 予記の如く再昨日磐城線原の町小高間線路五哩六十九鎖落成したるを以て字高小高両駅開業式を挙行せり当日の模様を客記せば高駅は未だ停車場の新築落成せさるに依り仮家にて開業せり先つ入り口には緑門を樹て毬燈を吊し構内広場には同村長吏員及び有志者を招じて立食所を設け仙台発七時の汽車が着するや東京音楽隊の奏楽あり余興には住吉踊り等ありて頗る盛たりし又小高駅は同村両入口及び停車場入口に大緑門を設け国旗を交叉 数百の紅燈を吊し装飾頗る美観を極むやがて列車の着するや花火を打ち揚げ開業式を始む此の日会社よりは長谷川建築課長木村庶務課長其他数氏出張同郡長警官官吏有志者等四十余名を招待 東京誂ひの西洋食の饗応あり又た余興には豊年踊り撃剣衆隊の奏楽ありしが当日と好天気なりしを以て非常の賑ひなりしと云ふ」明治31年5月14日民報
高と小高の似たような駅名が続いていることが混乱を招きそうだと問題視されて、高は磐城太田に改称された。南相馬は博物館の鉄道コーナーには「開業当時の駅名看板」として復元されたと称する看板に「磐城太田」とあったものが掲げられたオープン・セレモニーの日に、「これは開業当時のものではなく、現在と同じ表記なので間違いだ」と指摘した。鉄道の近代史を扱った特別展示のおりに、博物館の図録にも載って居たので「おかしい」と再び当時のN館長とS学芸員に同じ内容で訂正を申し入れたが、「あれでいいんです」と取り合わなかった。いまでも、そのままである。
開業当時とあるなら磐城太田は「高」駅でなければならない。現在磐城太田と呼ばれて古くから「高」と通称し記述する原町南部の一地域は、延喜式というわが国最古の神社総カタログに掲載された「多珂神社」由来の地名からくる。2011年の相馬野馬追は小高区が全区強制避難の対象になったために野馬掛け祭礼が挙行できずに中止され、復興鎮魂祭礼として小高を除いた中村、鹿島、原町の有志によるアトラクションで敢行した。2011年には小高郷の祭りは公式的には行われず非公式に太田に集まった。翌年2012年には、小高郷の騎馬隊は、原発事故地点から20km以上はずれた南相馬市原町区の太田地区に所在する「多珂神社」が小高に近く、なおかつ小高神社の宮司がここを兼任しているために、神社の祀る神も異なるにもかかわらず便宜上都合がよいので、小高の行事をこちらを会場にして「公式」に行った。場所に根ざした祭りを、現代の管理者が都合よくアレンジすることが許されるものかどうか私に判明しないが、やはり本来の祭礼とは別物というほかあるまい。
博物館がいまだに「開業当時の」と説明しているのも「看板に偽りあり」、である。