鉄道に反対した河野広中

天下挙って交通の完備を望むの時
憲政会の代議士は何故か
悉く鉄道敷設に大反対
彼れ等は地方開発に誠意が無い
県民に対し何の顔色ぞ
大正11年2月7日福島民報

「河野翁に至りては沙汰の限りである先年も平郡鉄道に反対して居り乍ら自分が農相になった時はその敷設に反対した鉄道に乗りて錦衣を故郷に飾った厚顔無恥の老人だから何とも呆れ返る外はない。」
福島県庁の中庭に建立されている河野広中の銅像は、輝かしい栄達を誇示する自由民権運動の英雄としてのシンボルとして政治力を自画自賛するイメージだが、じつは政友会の牙城の福島県ではむしろ少数派の憲政会のボスだったので、彼は民意の集約というわけではない。
鉄道布設を最も効果的に政治力の源泉に活用した政友会政権に対して、憲政会勢力はすべからく反対し、その集中的で具体的項目が「鉄道」になった。開発に反対、と政友会の機関紙「民報」新聞が河野一派を批判論難したのは、とうぜんだったが、河野の地元三春を含めて県南の開発が中通り郡山、福島といった東北本線沿線の都市部に比較して相当に遅れた主因には、まさに鉄道整備の遅れがあった。

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