私の少年の頃と機関区時代の事 荒勝雄
相馬郡中村町字黒木田百三十番地に明治四十一年一月三日生まれる。大正二年、原町機関区に庫内手として勤務。昭和二年、千葉鉄道第一連隊七中隊に入営。昭和十五年から龍生派家元補助華道教授。
機関区の庫内手をやっていた時、夜中にウトウトして帰り機関車のやって来たのを分からず、おどろき、道具をさがしているとき、後からきた人にビンタ一つその時うまくあたり、目から火花が散った。そのころの漫画でのらくろ二等兵を見て居て、火花が散っていた画があったが、それで初めて、実際の目から火花が散るということを知った。
入営した時も、兵隊という所は良いところだと思った。ボーイがいて、その御馳走の良い子と。いまだ食べたこともない御馳走。それが二度の食事の時ごと。ボーイは二等兵であった。
昭和三年三月に、母病気のため一年帰休で除隊したが、入営する前、いったん鉄道を退職せねばならないので九十円いただいた。
その金で母を仙台鉄道病院に入院させたが、ハハハ子宮筋腫で手術せねばならないとのことでしたが、ハハハ手術がいやだと言ってきかない。
そのうちにカネもなくなり、入営も近づいて来たので退院して、中村の岡田家に居たが、私が入営出立の時、玄関まで見送ってくれるのがやっとのことだった。
私が除隊して来た時は、やっと歩けるようになっていた。
三か月たって原ノ町機関区に復職し、元は北原といった今の二見町の家の座敷を借りて、母と私、弟の三人でお世話になったが、近所の人は母を見て、色は青く、ばけもののようだと言っていたが、私が暇な時に五十米ぐらいに西の堤まで歩くのがやっとで、坂は上がれなかった。
戦争の時、私は指揮部の講習のため、仙台に行って勉強し、夜は長町の宿にいた。
仙台空襲あり、原町もやられた。その時、私らは(駅前の)原町鉄道官舎にいた。
列車不通。それでも第一番の原ノ町行きに乗り、帰ってきたが、家族はだれ一人として居ない。線路は穴だらけ。聞く人も無し。もしかしたら同乗務していた機関助手の吉田君の家ではないかと思い、(石神村の)長野ではないかと思い、長野まで行ってみたら私の母と五人の子供がいた。
子供らは小さいからよく分からないが、よく空襲の中、思い出して長野まで歩いて行ってくれたと思った。
講習は、食べ物もよかったが、今度は第一に食べ物がない。
段々と母は元気がなくなり医者に診てもらっても薬がない。病気が段々と輪来るなり、昭和二十一年十月四日死亡した。六十三才だった。
(あぶくま新報・昭和60年12月18日)

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