狐狸が機関車に化けた話

日本人の生活様式と新文明のギャップから、文明開化の混乱と庶民のとまどいがあった。新聞等は、好んで庶民のとまどいを餌食にした。これらは江戸時代の「ばか村ばなし」の系譜に属した連続線上にあって村人の無知を嗤うものだが、民俗学の対象になるほど鉄道開通という日本の文明かいとは「むかしがたり」になってしまった訳だ。
日本民俗学の始祖柳田國男は「明治大正世相篇」の中で、開通当時の鉄道に関して「平和なる山の麓の村などにおいて、山神楽あるいは天狗倒しと称する共同の幻覚を聞いたのは昔のことであったが、後には全国一様に深夜タヌキが汽車の音を真似て、鉄道の上を走るという話があった。それは必ず開通の後間もなくのことであった。……電信が新たに通じた村の貉は、人家の門に出てデンポ―と呼ばわった」と書いている。
常磐線開通当時にも狐が出たようだ。
富岡町史別巻(続編・追録編)の第六編現代、第八章地域開発と観光、第三節富岡町の観光コースとそのガイド一、第一コース(112頁)に、次のような昔話が載っている。

会沢と会吉狐

磐城線開通間もない明治三十一年頃の話。この会沢を住み家とする会吉狐は機関車の車軸に使う菜種油をなめたくて仕方がない。そこで一計を案じ機関車に化けすまして夜の森駅から下り勾配を富岡駅へと向かっていた。一方本物の機関手は富岡川の鉄橋を渡り終えてまさに上り勾配にさしかかろうとしっとき、夜ノ森から下って来る機関車を見てビックリ仰天。必死で汽笛を鳴らしたが、相手も汽笛で応ずる。止む無く富岡駅まで後退し大騒ぎをしているうちに、油をすっかりなめられてしまった。
会沢狐の仕業であった。何日か過ぎたある日の事、又同じような事があったので、今度は機関手はかまわず走り続けたので会沢狐は汽車にひかれて、あえなく死んでしまった。うそのようだが実際にあった話である。」

うそのような実際にあった話というのは、化け物の狐がいたことよりも、それを事実だとして自治体史に記録する人が現代の富岡町教育委員会にいることだろう。

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