原ノ町駅と機関区が狙われ最大被害を出した1945年8月10日の原町空襲。
常磐線を走る機関車の機関士も殉職し、重傷者を出した。故郷は戦場になった。
8月9日は、シャングリラ、ワスプ、ヨークタウンから発進。10日は、カウペンスからも加わり、県内で最も激しく攻撃された。1日間の攻撃機は計122機と報告されたが、機数が空欄の記録も複数あり、実数はさらに多い。機種は戦闘爆撃機コルセア、爆撃機ヘルダイバー、雷撃器アベンジャー、戦闘機グラマンで、投下されたのは通常爆弾、近接信管付きの破砕爆弾、ロケット弾だった。
ワスプ、カウペンスの艦載機がわずかに原町攻撃の戦闘報告書を残している。9日は、ワスプのコルセア隊13機の報告だけで、このうち9機は、飛行機を隠しておいた掩体壕や松林を爆撃。1機は約30キロ北の町を襲撃した。1機はさらに二次攻撃して徹底的に機銃掃射。原町紡織にも残りのロケット弾16発を放ったと報告した。
10日に原ノ町駅を攻撃したのはカウペンスの雷撃器隊9機。飛行機は巧みに偽装され攻撃成果が確認できず、市街地の「軍事目標」を攻撃。2機が駅舎を爆撃し、2初が直撃した。また貨物列車や約5キロ北の集落も攻撃。1機は原町紡織に爆弾を投下、炎上させた。
ワスプのコルセア隊12機も掩体壕を繰り返し攻撃。1機はロケット弾2発を駅に発射。1機は機銃掃射を加え炎上させた。原町紡織にもロケット弾14発が撃ち込まれていた。
これらの報告書から、原町飛行場には偽装飛行機が置かれ、飛行機が広い範囲で巧妙に隠されていたことがわかる。思うように航空機を破壊できなかった艦載機が、市街地に狙いを移して余った銃爆撃の弾薬と爆弾を浴びせたようだ。
萱浜の木幡一家の幼児と青年の2人が空襲の掃射射撃によって殺されたのは、ありふれた農家でのことだった。
この日、米軍は手当たり次第に策陸していった。