木戸駅で兵士を送る

当時木戸駅の職員だった金成正は鉄道院の作業や、戦時中の気分を手帳に綴った。
金成は震える手で転てつ機を操作し、レールを動かした。D51型蒸気機関車を先頭に50ほども連なった貨車が、白一色の平原上に黒い煙をたなびかせながら南下していった。行き先は軍需工場地帯の日立ちや、川崎、東京、横浜の港などだった。
昭和十九年一月三十日。列車がまた乱れる様だった。今日は我が木戸村より若人五人揃って勇躍征途につくのだ。今日も自分の先輩、入鉄依頼の指導者矢内馨君等五人元気にこの地を出発す。自分は平まで見送る。今日の入営兵の汽車はきっしりと乗っていた。雨が降っていた。
前年秋以降、常磐線の上り列車は臨時列車が急増し、定期列車は頻繁に遅れるようになっていた。貨物列車で運ばれる物資は野菜や米、果実などの食用から機関銃や大砲、弾薬など。北海道や樺太から良質の石炭もあった。積荷は外からは見えなかったが、金成たちは貨車の外側にある「暗号表示板」で、中身を把握した。例えば青色の二重山の形をしたマークは兵器やその財領。「キ」印は銃弾やニトロなどの薬品。…といった具合だ。印のないのはほとんど兵隊用の食料品。一般の国民、とくに都市部ではなかなか口にできなくなっていたコメが中心だった。
三日に一度は応召兵のための臨時列車も発着し、構内にバンザイが響いた。前年の十二月、徴兵適齢がそれまでの二十歳から十九歳に引き下げられたうえ、これまで応召の対象とならなかった体格の小さい人たちにまで「赤紙」が届くようになっていた。兵隊をは戦につぐ敗戦で、兵員と軍事物資は極度に不足。臨時列車の急増発は、それらんを全国各地から補う意味があった。国民は「勝利に次ぐ勝利」を信じつつ、「撃ちてし止まむ」の陸軍の決戦標語の大合唱のもと、鉄砲や戦車、戦艦など武器の財領となる鉄を調達するため、農具から寺の鐘までありとあらゆる鉄製品を差しだす運動を展開した。
金成の身辺もこれまでにない事態が進んでいた。43年9月に廃止された川俣線の線路が軍需品として没収され、常磐線の鉄橋も必要最小限の骨格以外の鉄筋が取り外された。鋼鉄で出来た旅客車は姿を消し、木道客車だけ残された。政府は不急旅行の禁止の「政策を打ち出し、客車は次々なくなり、乗車券も各駅割当て制となった。木戸駅での乗車券の割当ては一日にたった三枚。駅員たちは軍事輸送業務に全勢力を傾け、一日おきに二十四時間の勤務が続いた。金成は「疲労が限界に達し、作業中のに知らぬまに寝込んでしまうことさえあった。」と明かしている。
毎日新聞「あの日の軍国青年」より

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