昭和の陸前浜街道

長々と説明してきたこの部分は、ほかでもない。この、みっともない鉄道線の大迂回を強いたのが、富岡町の先人たちの強烈な反対という「歴史的判断」であったということなのだ。
強固な反対運動を展開したのは、さらに北方の相馬地方でも同じで、当時の中村では機関庫の設置に反対し、原ノ町に変更され、原っぱにすぎない原ノ町が発展の契機をつかんだ。小高町の商工青年たちは「中央の軽薄な文化が、淳良な小高の民情に悪影響をもたらす」という檄文を発表して、駅設置そのものに猛反対したという経緯がある。
万葉時代から「陸前浜街道」は、唯一の交通路であった。昭和のコンクリート浜街道「国道六号線」は、昭和四十一年に至ってようやく開通した。
しかし、道路公団の中で法定路線の審議をする時、三全総における東北の筆頭は「常磐高速道」だったという。
雪という自然の脅威の対面しなければならぬ中通りの「東北自動車道」よりも、冬でも雪の降らぬ浜通りの「常磐自動車道」の方が、はるかにコストが安く建設も容易であったはずなのに、幻のごとく「常磐」が消え去ったのは相馬郡選出の県議木幡弘道によると、「一つには、よく言えば土地に対する愛着だが、新国道六号線ができる時に相双住民がきわめて冷ややかだったことがある。一ケタ国道の中で、六号線がようやく戦後、陽の目をみて走りだした頃、優良農地を潰すような道路は要らない、と言って相双地方は一番手こずった」(小高町で開催された原町青年会議所での講演)という。
こしてみてくると、相双住民は南から北まで、この百年か以上ずっと高速体系には無関心であったばかりか不要を通り越して、みずから有害との判断を示して、鉄路もコンクリート道路も返上しつづけてきたのである。
ところで、大熊町の一部には、国道六号線が集落のど真ん中を通っている地区がある。

これは、明治の鉄道開通の折に猛反対して駅から遠のいてしまった地区住民が、鉄道沿線の駅所在地のその五の発展ぶりを横目にしていたので、交通こそ地域の発展のカナメと痛感し、さびれてしまった集落を再び活性化すべく、新国道六号線の敷設では一大協力誘致運動を展開して、わざわざ集落の中央部を通したのだそうだ。
ところが鉄道と違って、モータリゼーションの方は異なる輸送システムなので、多数の乗降客が消費活動によって地域の商業集積を助けるという結果をもたらさない。
逆に物流の通過点として、中央と地方都市の二極の間で走る凶器が町の真ん中に巨大な動く壁を形成することになり、町はますますさびれてしまったのである。
町の発展どころか、子供達が町を横断するにも危険な、生活空間の分断と破壊という状況を呈してしまった。
鉄道と国道に絡まる相双地方の住民意識は、基本的には以上のような経緯によって分かるとおり、まことに歴史に逆行する反応をとり続けて来たのだ。
歴史センスの欠如といってよい。
しかし、こうした悲喜劇によって生み出された「うらみつらみ」と「ひがみ」の感情は恐ろしい。
先人たちの判断によってもたらされた低開発であっても、これを甘んじて後継しなければならないのは、つねに次世代である。
原発(しかも世界一の集中基地として)の銀座とさえ言われる相双の海岸線にはりついた自治体が、この権利意識の過剰な現代にあって、無条件降伏のように両手を高々と挙げて、大歓迎でハイリスクの原発を受け容れた背景には、右のような事情を見逃してはならない。
原発という、電源三法交付金つきの「麻薬」に飛びついたとして、一体誰が相双住民を責めたり嗤ったり出来ようか。
相双はあまりに貧しすぎたのだ。今まで冷遇され、干されてきた分を、まとめていただいたとしてどこが悪いか。原発立地町村の住民はそう思っている。
県土地公社と大熊、富岡等の自治体が抜き打ち的に、原発リスクを説明せずに国の望む方向で、巨大プロジェクトをスタートさせた経緯があったにせよ、その後これを選挙という民主主義上のシステムでチェックしなかった住民にとっても、この核時代の大事業は「和姦」であるというほかない。
出稼ぎで家族と暮らせなかった一家の大黒柱が、地元で職を得ることのどこがいけないのか、と。
こういうホンネは、放射能とかイデオロギーとかとは無縁の次元にある。
もっとも、民権運動家苅宿俊風を出した浪江町苅宿のように、原発には労働者を提供しない、という貞操を守りとおす地区もあるにはあって、土地の者の心意気がない訳ではない。

千年パラダイムの中の福島三区 我らは将来に何を遺すことができるのか 政経東北1986

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