昭和の時刻改正
● 鉄道黄金時代
昭和に入ると、第一次大戦後の経済不況は慢性化し、深刻な社会問題を招来した。
4年9月15日全国の時刻大改正を行い、列車速度の向上や都市間快速運転など旅客サービスが実施された。これにより上野青森間急行列車のうち常磐線経由は上野仙台到着時刻の関係上、据え置かれた。
昭和5年1月1日、鉄道全線にメートル法が施行された。
昭和9年12月1日、上・信越線を除く全国時刻の大改正が空前の規模で実施。
満州事変による日本の中国大陸進出以来、国内の経済不況は一転して軍需景気に転じ、重化学工業を中心に設備投資が行われる。しかし農村とくに東北地方では農産物の値下がりや、9年秋の凶作に見舞われ農民は窮乏にあえいでいた。
このダイヤ大改正では、東海道本線丹那トンネル開通などを機会に実施されたが、東京以北の各線は従来、以西に比べて輸送改善の機会に恵まれずに大正2年5月以来の運転体系が踏襲されてきたが、時代の要求に即応してようやく21年ぶりに全面改正され、東北地方の後進性から月日することとなる。
この改正の最大の圧巻は、上野青森間のうち常磐線経由急行列車で、到着痔分を一挙に下り4時間55分短縮、上り5時間55軍短縮して。前者12時間45分、後者12時間25分としたことだった。この急行は一等寝台車と洋食列車を廃止。2・3等寝台車、和食堂車を連結。
● 戦中時代
昭和15年10月10日主要幹線の時刻改正。急行列車と貨物列車の増発。このとき新設された急行列車には上野青森間常磐線経由および上野仙台間の各一往復があり、所要時間が前者13時間5分、後者6時間35分とした。
昭和17年11月30日、戦争の激化で旅行の制限始まる。100キロ以内は切符の発売が制限され、100キロ以上の旅行には警察の許可証明書が必要で私用の旅行は、ほとんど禁止と同じことになった。
昭和18年2月15日、全国旅客列車運転の大制限が断行される。
同18年2月15日、臨時非常体制の確立により優等列車が大幅に削減。この時東北、常磐線では上野仙台間急行および上野日光準急各一往復が禁止された。
同18年10月1日、全国大改正が決戦ダイヤとして実施され、急行列車の削減と速度低下と引き換えに貨物列車が増発された。常磐線経由上野青森間急行列車は一時間14分延長して14時間となった。急行列車は東北本線経由3往復、常磐線および奥羽本線経由各一往復とした。
同19年4月1日、決戦非常措置要綱に基づき時刻改正し、一等車、寝台車、食堂車の全廃と急行列車を削減し貨物列車を増発した。これにより上野青森間急行列車は東北本線経由が廃止、常磐線経由一往復だけとなった。
昭和10年8月4日、学童疎開列車を開始して、わずか二か月の間に79万人の都会の子供たちが安全な田舎へ送られる。
同年10月11日、戦時陸運非常体制実施に伴う時刻改正を行う。上野青森間は常磐線経由急行列車は所要14時間30分となる。
12月になると東北地方は豪雪に襲われ、列車運転は完全にマヒする。このため15日上野青森間のついいつ唯一の急行列車(常磐線経由)は運転休止となった。
さらに20年5月1日大空襲下における輸送力要綱により旅客列車の第一次削減が行われ、6月20日第二時次削減。昼間の閑散時間帯に運転する列車は間引きされた。これにより上野青森間直行列車は、東北本線経由二往復、常磐線および奥羽本線経由各一往復となった。
7月14、15日、米軍空母から発進した艦載機による攻撃を受け青函連絡船は一挙に壊滅。常磐線では、7月20日に機関車が空襲を受けた。
また8月9、10日には原ノ町機関区が空襲の攻撃を受け、6人の殉職者を出した。
国鉄は満身創痍の状態で8月15日の終戦を迎える。
国鉄では数年にわたる戦争の直接被害は、機関車891両、客車2228両、電車563両、貨車9557両、連絡船8万トン、線路1600キロ、建物70万坪等の大きなものであったが、これにも増して大きいのは保守の遅延と鉄道設備全体の老朽化で、これが回復には戦後15年近くを必要とした。