つづく明治33年には、日鉄職工の同盟罷業がおこなわれ、1300名の要求をつきつけている。原ノ町機関庫の職工も登場する。
明治33年4月17日民報によれば、「〇日鉄職工の紛議」と題する記事を掲げ
「▲千三百名の要求如何 と見るに何れも正当なる要求にて下の如き七ケ条より成れり」と好意的に報じている。以下はその要求。
「(一)職工の取扱を各課同様にすること
(二)幼年工の為めに講習所を設くること
(三)日給一円以上の職工を優等技工と称し七十銭以上を技工と称すること
(四)職工長に運輸手以上の待遇を与へ 優等技工及び技工は運転手同様の待遇となし 諸給料は総て之に準じ精勤賞及び積立金を職工にも与ふること
(五)時間給を日給に改め 会社の業務の為めに負傷して休業する時は日給全額を貸与すること
(六)一定の休日を与ること
(七)社宅を貸与すること」
民報はこのあと「日鉄職工同盟罷業の真相」と題する連載特集をキャンペーンしており、同年4月25日民報には「内密運動の方針を仙台・盛岡等と打合せ 竟に一篇の檄文を草して原ノ町・平・大宮・桐生を初め各駅々の機関工場に配布するに至れり」と報じており、原ノ町機関庫の名も登場する。
4月27日付け誌面で、この同盟罷業に参加した中には「平・原ノ町工場 二十人」と報じている。
明治33年4月6日民報には、「別紙歎願の諸件貫徹する迄は如何なる悲境に陥るも死を決して我が期成を図って已まざるべし」との、3月19日付けの職工同盟会中央部の名による檄文をそのまま紙面に紹介しいぇいるほか、ストライキと会社との交渉の様子を逐一詳細に報道し、交渉当事者の顔が見えるほどの近さで人間の息づかいまでいる。
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