半谷清寿、襲撃を受ける

お隣小高町の小高史によると、当時の日本鉄道会社が指示した土地買収の価格が不当に安かったので、その土地価格を正常な価格に引き上げる運動を展開した半谷清寿(のち代議士)は、しばしば(鉄道会社側の)暴徒の襲撃に遭っている。
会社側について甘い汁を吸うブローカーがこの時代にもいたのである。
小高町史は次のようにいう。
「いつの世でもそうであるように、或る大工事を起こす場合、必ずつきまとうのが、ボスの暗躍による用地買収への確執である。日本鉄道事件もまたこのような背景のなかにその発端をみることができる。
明治二十七年(1894)常磐線の敷設権が時の日本鉄道会社に許可され、土地買収が一斉に開始されようとしていた。しかしその買収価格は極めて不当な安い価格で、ブローカー等もさかんに動いていた。半谷清寿はそれを黙視するに忍びず敢然として立ち上がった。明治二十七年日清戦争の前夜、常磐線の開通がせまられていた時である。彼は二十七~三十年にわたって闘った。地方新聞等は殆ど会社側に立って彼を罵倒したし、暴漢は度々彼に白刃を突きつけたという。しかし彼は少しも屈しなかった。のみならず、当時実業界に重きをなしていた「実業新聞」は、その真相を記した彼の寄稿を連載して応援している。

ここにいう「実業新聞」とは、福島実業新聞のことで、河野広中が発行していた。のちの福島民友につらなってゆく地元新聞だが、ライバル福島民報は政友会の政党機関紙で河野とは反対派。小高の半谷清寿を眼の仇にして攻撃した。

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