明治29年 原ノ町停車場の位置決定

明治29年7月19日民報に次のような記事がある。
「〇相馬原町通信  当地は最近発展の土地なるも戸数人口は頓(とみ)に増加し最近三四年以来は一箇年平均戸数五十余戸づつ増殖し割合なり故に市中の繁昌ハ日二日に月に加ハり漸次中村町を圧するの勢あり、小学校は現校長湯沢直蔵氏赴任以来総ての面目を一新せし為め生徒及児童百に対する九十余名の割合にして統計上県下第一の多数を示せり故に漸次校舎の狭隘を告くる有様なれば一両年中には増築を要するならん、村長は自由党村会議員の未だ少数なるの時反対党議員の選挙により同臭味の人物なるも実際自由党を以て八九分を占むる土地なれば村長も今や敵す可からざるを知り務めて公平を装ひ戦々兢々其過ちなからんことを慮るものの如く為めに一般の黙許の姿…、海岸ハ数日来松魚の大漁ありて市在ともに相応に賑へり、停車場は市街の南凡五六丁の所に設くることとなり其構内の規模も中々広大の設計を為す由、新設貸座敷ハ非常の繁昌にて僅か三戸のみなるも妓数ハ三十名程あり当地名物の淫売婦は一時百余名の多数ありしか貸座敷新設以来は自然淘汰により追々其数を滅し目今ハ僅か五六名の残物ありあるのみ芸妓も従来は概ね淫売兼務の為め中々盛んなりしか是又四五名を遺すに過ぎず左れば当地の識者は何れも淫売駆除法には公娼を置くに如かずとの与論に傾けり」
明治29年には原町停車場の位置は決定していたのである。

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