明治の時刻改正

原ノ町駅開業の当時に、東北本線の上野青森間や常磐線にはまだ急行列車の運転もなく、仙台・平経由・上野間は各駅停車で一日一往復の汽車が走り、上野駅から仙台駅まで直通十二時間四十五分ほどかかった。
駅の停車時間は三分から五分くらいで、機関庫のある平駅や水戸駅、原ノ町駅では蒸気機関車を交代させるため二十分間ほど停車した。
常磐線開通から間もない仙台駅発汽車時刻表を見ると、上りは午前七時三十分上野行き、十二時正午水戸行、午後五時十五分原町行きの三本の汽車が運行されていた。
明治三十二年二月十日の福島民報には、次のような時刻改正の記事が見える。
〇常磐線発着時刻改正 日鉄会社常磐線発着時刻改正あるべしとは前紙報道し置きしか愈々明十一日より左の如く改正せり
上り仙台発上野駅行 午前六時五十分(従来の儘)
同 同  平  行 午後十二時二十五分(改正)
下り原町発仙台着  午後四時五十分(従来の儘)
同 平 発 同   午前十時二十五分(改正)
同 上野発 同   午後七時五分(従来の儘)
等にして全く廃止となりたるは上り仙台午前九時四十五分発水戸行及び下り水戸午後四時発仙台行のみの二回なりと云ふ

以下「汽車旅行歴史シリーズ全国鉄道と時刻表2東北奥羽」等によれば、次の通り。
〇明治三十五年十月より、日本鉄道、客車のランプに改良油燈「久美式油燈」を使用。
〇明治三十六年七月十一日、上野青森間直行列車の所要時間を二〇時間三〇分に短縮。急急行列車として運転。海岸線経由上野仙台間の停車駅を減じ、急行列車九時間十五分運転とした。
明治三十八年四月一日、日本鉄道日暮里三河島間開業。上野から海岸線への直行列車は同線経由に変更。
明治三十九年三月三十一日「鉄道国有法」が公布され、日鉄など幹線系私鉄十七社が、三十九年十月から四十年十月にかけて国有化される。
M31.11.6改正
M33. 8.1.改正
M35.12.5改正
M39.4.15改正
M40.7.改正
一方、(日露戦争で大陸の)海岸からの兵員引上げもほぼ終了したので、三十九年四月十六日戦時ダイヤから平時ダイヤに戻る時刻改正が、官鉄、山陽、日鉄で同時実施され、このとき上野青森間に直通三往復を設け、一往復を海岸線経由「急行」列車(所要十九時間十五分)とした。
四十二年十月から海岸線は常磐線と改称された。
四十一年三月七日、国鉄は青森函館間航路を直営開始そ、これに伴い五月一日東京以北の時刻改正を行い、上野青森間の海岸線経由「急行」列車を十九時間五分運転とする。
この年十二月二十五日かた冬ダイヤが十二年ぶりに復活し、以後大正二年まで夏・冬ダイヤが実施される。このとき上野青森間「急行」のうち常磐線経由は所要時間を約一時間延長し、東北本線経由は仙台打ち切りとなる。
四十二年の夏ダイヤは四月二十一日、冬ダイヤは十二月二十八日改正されたが、このとき常磐線経由「急行」列車の上野平間に初めて急行列車券を発売する。これは三十九年四月東海道線新橋。神戸間に初めて設けられていたもので、短距離客の乗車制限と、特別料金による増収を狙ったもの。

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