戦争と鉄道 国鉄と二十四時間体制
鉄道省は省令で昭和十七年十二月十一日から二十四時間体制を採用することになった。軍隊では創設以来二十四時間体制をとっており、南満州鉄道や朝鮮総督府の鉄道も軍の要請ですでに昭和五年頃から二十四時間体制をとっていた。国有鉄道が二十四時間制を採用することになったのも、戦時体制の要請にこたえたものであった。
この年の十一月十五日の時刻表改正もそれに従って実施され、それまで列車時刻表には運転時間が午前は細字、午後は太字で記載されていたのが、零時から二十四時間制は細字だけで記載されるようになった。国鉄の二十四時間制は戦後も改正廃止されず、現在も私鉄・バス・航路・航空路すべて二十四時間制になっている。戦時体制のなごりである。
信号係 軍国化で増えた信号所
佐藤許信さんは大正八年一月一日生まれ。仙台駅信号係として国鉄に奉職。日本は軍国化に拍車がかかって、「翌十一年の226事件を区切りにして、それ以後は国内の鉄道輸送が一斉に活発化してゆくのを身を以て実感しました。
と言う。
明らかに、平時から戦時体制への対応である。兵員や物資の交流が急増し、地方各師団の装備などの編成替えのあわただしさを反映していた。
常磐線の福島県内でいえば、末続、新地、駒が嶺、桃内といった駅は、当初は信号所としてスタート。後に駅に昇格した。
これはもともと純粋に軍事的な要求によってのこと。新庄所から信号所までの区間が長距離すぎると、常磐線は単線なので、単一の列車が区間を塞いでしまう。単一線上で効果的に上下の輸送を増加させるためには、区間を短く区切って信号所を増やすことでしか可能とならない。常磐線はこうして軍事輸送の増量に対応した。国家(軍)の要請により地元協力という形で、信号所を造らせたのである。
末続信号所の開業の折には佐藤許信さんが初めての発射合図をした。
新庄所の思い出と、軍の台頭と地域史の背景とが、ここで重なった。
そして昭和十二年。政治圧力を加えるためにすでに中国に進出していた関東軍は、盧溝橋事件を口実に、ついに大っぴらに軍事行動を起こした。
佐藤さんは現役召集で弘前八師団の電信連隊に入隊。ソ満国境へと派兵された。
本部は瀋陽にあった。盧溝橋は当時のままの姿が保存されており、その現場で上官が歴史的な背景を説明してくれた。もっとも日本軍側の公式的記録にもとづく説明ではあったが。(こんな将校もいるのか)と思った。
昭和樹う七んんに除隊となり、釜山港から帰還した。鉄道に復帰してからは地元の小高駅で対空監視所に勤務した。空襲に備えるための施設だ。櫓に上り双眼鏡で上空を監視し、敵味方の別なく機影が見えれば本部に報告する。
終戦の年の昭和に十年には、草野駅に勤務。家財を貨車に積んで任地の草野駅に引越て来た日に、村人が荷物を降ろすのを総出で手伝いに集まってきていた時だった。
いきなり近くの海辺から、波間から突然、米軍水上機が出現した。バリバリバリバリッと貨車目がけて銃撃を加えてきた。
結婚勅語の事だった。夫人は臨月の身重で、これが原因で流産してしまった。忘れることの出来ない若き日の痛恨事であえい、とんだ災難であった。
鉄道運輸には事故がつきものである。
佐藤さんの鉄道人生に、今も夢に出てくる惨事がある。
鉄道に入ってすぐ翌年に、仙台駅構内の鉄塔の上で作業中の職員が高圧電流の流れる電線に触れて感電して跳ね飛ばされ落下して即死するのを目の間で目撃した。
この時には遺族に知らせる使者を命じられた。しかし「絶対に死んだと言ってはならない。すぐに現場に来るように、とだけつたえよ」
と指示された、という。
医師と警察と一緒に立ち会った。それが仕事だった。
またある時、雨の日に菅笠とミノ姿(当時は一般的な姿だった)で作業中の保線区職員が、構内で急行列車に巻き込まれて轢死した。
昭和六十三年の現在も、夢に出てきては夜中にうなされることさえあるという。
聞き書き、二上