急行北上号の脱線転覆事故
昭和32年5月17日夜8時。双葉町内の中学校で、映画会が始まろうとしていた。
近所の人が、どんどん集まりだしていた。この夜、「長塚」という地名は、常磐線沿線の鉄道関係者にとって忘れることの出来ない名前となった。
現在の双葉駅は当時「長塚」という名であった。
長塚鬼木地内に住む新家勝喜さんは、原ノ町機関区に勤める機関士だった。その日は公休日で、映画会に出かけようと家を出た。
三三五五、人々が歩いている中から、子供が大声で叫びながら駈けて来た。
「機関車が火事だあ!」
宵闇の空がひときわ赤くなった。火事のように見えた。
新家さんは慌てて制服を取りに戻った。カメラを持って行ったのは無意識のことであった。前田地区のガードで列車が脱線転覆したという話が、雑踏とともに伝播してきた。
歩いてゆくには遠すぎた。
折からオートバイが通りかかったので便乗して事故現場に向かった。
既に非常線が張られていた。身分を名乗り、立ち入り禁止のピケを撥ね退けてい期間車に近づいてゆくと、倒れた汽缶から勢いよく蒸気が吹き出していた。車掌が赤い合図灯を焚いたので、あたり一面の上空まで達してうる蒸気の雲にその色が反映して、じっさい火事のごとく見えた。
不気味に美しい赤い輝きのなかに、一人は退職したばかりの若松という人物が、もう一人は近所に住んでいたOBの森山という人物が救援に駆けつけていた。
「どうしたあ。機関士と助士は何処だあ」
切迫したかけ声が飛び交った。
倒れた機関車に、テンダー(炭水車)がのめりこみ、後尾を持ち上げ、機関士席はその間に挟まれていた。そこへテンダーから溢れた石炭が埋まっており、どう見ても二トンから三トンはありそうだった。
機関士席ではパイプとレギュレーター(加減弁)の間に人間がはさまれていた。
中は熱くて近づけない程だ。消防団員たちが来ていたが、手伝ってくれと頼んでも、いつ爆発するか分からないと言って近づこうとしない。
三人で何とか機関士を引き出し、機関車の脇へ降ろした。
「だれか駅へ行って、ムシロでも何でも以て来てくれ」と声をかけても、誰も行く人がいない。
仕方ないので新家さんが、近くの親戚からムシロを二、三枚借りて来た。戻ってみると、駅から駅員たちが来ていた。あらためて担架を持って来てくれるように頼んだ。
新藤機関士の遺体を、ひとまず土手に移し、機関助士を探した。
多分、石炭の下だろう。みんなで石炭を掘りだした。しかし石炭を掬う道具がない。手で掘ったり、点検ハンマーで掘ったりした。するとやはり、そこから足が出て来た。
浪江からも鉄道員が来た。
とにかく掘った。逆さまに立った状態では掘り出すまでかなりの時間を要した。
こうして助士も引き出し上げられた。
助士は、頭部を包帯でぐるぐる巻きにされて、担架で運ばれていった。
電話線が事故によって引きちぎられ、信号も動かない。水戸の鉄道管理局へは、公衆電話で連絡した。水戸から上級管理者が乗用車で到着したのは翌日昼ころであった。
検視係が水戸鉄道病院から来たが、検視は地元の医師に任された。
昼前までに、遺体は原ノ町機関区講習室に安置された。
何故このような事故が発生したのだろう。
事故の翌日になって、惨状は全貌をあらわにした。現場のガードあたりに、えぐられたような砂利の痕があった。
当時は当然のことながら道路は舗装されていなかった。
東京から北上し、浜通り双葉町内を通過する道は、いずれにしてもこの道しかなく、必ず前田地区のガードを通らねばならない。ガードには傷がついていた。その後の調査で、事故の原因は鋳物の歯車を積んだトラックが制限寸法を超えていたために、荷物がガードに激突し、その衝撃でガード上のレールの継ぎ目をずらしたため、と分かった。わずか数センチずれたレールのために、巨大な急行列車が脱線転覆してしまったのである。
常磐線は単線である。この事故のため、上下不通になってしまった。客車も貨物もストップしたまま、乗務員たちも時ならぬ事故のために仕事も休みになってしまった。
双葉町長塚地内は、レールはゆるやかなカーブとなっている。下り列車の場合、このカーブはブレーキをかけるべき所で、そのまま双葉駅構内へすべり込む手順になっている。