幸田露伴の「うつしゑ日記」
明治30年10月には作家の幸田露伴が相馬中村まで四日間の紀行を「うつしゑ日記」に描いている。初日に平まで、二日富岡、三日は原町泊りである。時に露伴三十才で、すでに名作「五重塔」が発表されており、尾崎紅葉と並んで明治文壇の売れっ子となり、紅露とも併称されていた。
「明治三十年十月七日朝早く寺島の家を出でて上野の停車場へと心ざし、車を急がす」と書き出しているが、車というのは人力車のこと。当時開通したばかりの常磐線に乗り、その沿線を紀行に遺している。上野駅を「六時二十五分といふに車は動き始め」「為すことも無き車室の中に」同行の乙羽子(雑誌太陽編集者)酒を酌み交わしながら北上する。
「百里の路に杖笠の備へもせず、煙管のけぶりゆるく立てつつ、樹の間、藪蔭、田圃の中を、見る眼忙しきまで疾く走る身の安らかに座して行くこと、今さら云はんもおろかながら汽車といふものの恩恵なり」と鉄道の旅の快適さについて言及する。
「うつしゑ日記」と、これに続く「遊行日記」は、明治三十年十月七日から二十四日に至る記事で、前者は雑誌「太陽」の同年十一月号、十二月号に、後者は三十二年三月号・四月号・七月号に載った。また、「うつしゑ日記」は雑誌文芸倶楽部「旅之友」に再録せられた。(露伴全集第十四巻後記)
たしかに当時の記者の旅を活写している。
途中下車しながら旅の途次の見聞をしつつ、「名古曾(勿来)停車場よりまた汽車に乗じ、七時半といふに漸く平町に着く。二人とも疲るること甚だし」という初日であった。
二日目は「久の浜までの汽車に乗りて行くほど、空は薄黒くなり霧雨おち来る」
久の浜で降りた。あとは人力車を走らせた。
二日目の宿は富岡。
「もとはよき駅にもあらざりしが、「銕道」の設けらるるにつきて、其事にたづさはる人びと多く足を止むるより、おのづから物売る店、飲み食ひさする家も多くなりしにや、新しき家の人の目を惹くやう異様につくれるなど見ゆ」というのが鉄道開通で賑わう富岡の印象である。
露伴は鉄道の文字を「銕道」と表記している。この当時、鉄の文字のほかに「銕」「鐵」などの文字が使われ、銕道、轍道などと幾通りもの表記を使う人がいた。
三日目。九日。浪江で昼食。「小高を過ぐる次(ついで)、半谷氏を訪はんとせしも、日傾かんとして心急ぎせらるるまま訪はず」とある。
半谷氏とは、半谷清寿らしいというのが通説である。(小高町史)