「羽二重織る機の音の忙しきにつけ、我等も車をいそがせ、尾花なびかし吹く夕風の襟に寒きにつけ、早く宿からんとおもふ。名高き野馬追ひは昔時ここにてせしなりといふ原にかかりしほど、月さしのぼりて、山やま遥に連れるが中の広野を照らせるいと物悲しく、おくれて帰る草つけし馬引く男の、声あはれに相馬節唱ふも、そぞろに人をして秋を感ぜしむ。雲雀野を出ではづるれば原野町なり。原中なれば名に呼びしなるべし。路の右手に当り、少し離れたるところに燈火の光り多く見ゆ。何ぞと問へば遊君居るところにて、栗の木林と称ふる地なるよしなり。其地の名の鄙びたれど猶やさしきかたもあるに、秋ふけぬ栗の木ばやし夜行かば毬もや踏まん月明くとも、と戯れ、また、いで問はん栗の木ばやし秋ふかし笑みてもあらめ落つるばかりに、と戯れて大に笑ふ。
原の町は町も富岡には勝りたり、風俗もあしからず、特に我等が宿りたる家の人びと見な心やさしくもてなし呉るるに、昨日の苦しさも今は笑ひのたねとして心地よく夜食を済ます。食後、乙羽子は芝居見にとて立でづ。我は鳥屋小僧のことを思ひ出して行くべき心もせねば、とどまり居て筆を取り、よしなしごとなど書す」
五十ばかりなる按摩が来たので、名物相馬の民謡を所望して銭をとらせた。
「歌の節さすがにおかしき趣きにしもあらず」と感想を記してはいるが、「猶聞く耳つたなければ声の長し短しなど違へるなるべきか」と正直なところの、あまり民謡については鑑賞眼があるという訳ではなさそうだ。
「十日、原野町を立ちて塩崎鹿島を過ぎ、昼頃中村に着く」とある。原町は夜だけの滞在だったのだ。「原の町のかなたよりここまでの間、行方の郡なれど、おもかげにして見ゆといふものをと笠女郎が詠ぜし真野の萱原はいづくなりとも、心さへつかで過ぎき。原は雲雀野、鹿島の近くに小池の原などありしが、真野という地の名は郷の名にも村の名にも聞かざりけり」(明治三十年十月)と筆を擱く。
この晩、露伴が興を起こして夜の原町に出て、原町座あたりで上演されていた田舎芝居を見たなら、きっとすばらしい情景を我々に伝えてくれたことだったろう。
「うつしゑ日記」に続くのが「遊行日記」で、松川浦、原釜に遊び、詳しく中村町を描いている。そして「十一日、朝いと夙く中村の停車場に至りて、岩沼までの間汽車に便乗せんことを乞ひ、許しを得て之に乗る。客車の往復は未だ始まらねば、材木など積みたる車の上に毛布を打敷きてそれに坐せり」と、開通直前の工事用の汽車で岩沼まで便乗して仙台、盛岡、青森と旅をつづけ「二十四日午後家に着きぬ」で旅を終えた。
露伴は明治二十年九月に、開通直後の東北線郡山東京間にも乗って「突貫紀行」を書いた。常磐線全通直前の東北地方を一周する明治の鉄道の旅も、かくして文学の筆によって残されたのである。
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