浜通り開発の一世紀を追う
常磐線100周年の軌跡

鉄道は、国の近代化そのもののスケール(ものさし)になる。一国の近代化は、たいてい軽工業から興る。日本工業倶楽部の建物の破風には、鉱夫と織女の彫像のレリーフが飾られているが、これら一対の職業シンボルこそが一国の近代化(工業化)をなぞるものなのだ。
すなわち石炭は近代化のエネルギーを提供し、織布は軽工業がもたらす最初の国家の富だからである。
近代国家は、まさに鉱夫と織女の肩に支えられて誕生する。
産業革命をなしとげた英国はじめ欧米諸国もインドなどのアジアもみな同じプロセスをたどって発展した。
福島県の近代の歩みもまた、織女と鉱夫によって支えられている。
東北線も常磐線も、江戸から東京と名を変え、首都と織女(養蚕)・鉱夫(炭鉱)の働く地域を結ぶものとして出発している。
明治似十年に東北線(当時の奥羽線)が開通した時も、十年後の明治三十年に常磐線(当時の磐城線)が福島県にやって来た時にも、その活気ある時代の空気を活字で伝えたのは幸田露伴という若き文士である。
露伴の名を聞くと、人はあの長いアゴヒゲの老人の写真を想い出し、書斎の奥の文豪像を連想するであろうが、彼の真骨頂はそんなイメージとは無線のところにある。
明治という年郷に、古臭いイメージを感ずるのは遠く昭和も戦後のことであって、歴史の上では現代よりよほど沸々たるエネルギーに満ちた激動の世の中であった。
活気ある明治にふさわしく、幸田露伴という青年文士は好奇心の塊のような人間であった。
今でいうならTV局の新進デイレクターの企画に乗せられてユーラシア大陸や南北アメリカをヒッチハイクして縦横に闊歩した猿岩石やドロンズみたいな若手売り出し芸人のような、雑誌媒体を舞台にヒッピー旅行をやってのけた青年なのである。
古臭い名前や、教科書に載っている芸術家然とした肖像写真に騙されてはいけない。

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