原ノ町駅頭の天皇

戦争の余燼くすぶる日本全土を、精力的に天皇は巡幸していた。
昭和二十二年八月五日午後三時三十五分、天皇が初めて原ノ町駅に降り立った。
大正七年に皇太子であったとき軍事視察のため東北巡幸の巡幸の帰りに常磐線を仙台から南下する車中の人となったが、相馬野馬追で有名な原ノ町については従兄の東久邇宮から聞いていたので侍従がいう野馬追のアトラクションが楽しみだった。
あの時、若い裕仁殿下はお召し列車が超徐行運転でスピードを緩めてくれた数分を、車窓の外に勢揃いして伴走する騎馬行列を見たことがある。
右手に阿武隈台地の低い丘陵の稜線と田園光景を、左手に田舎の松林の防風林と時折垣間見える太平洋の波頭とを抜け、やがて村里のほとりに緑濃く樹木が迎え小ぶりの清い新田川の鉄橋を渡って街並みが見えだした町の郊外らしき線路に沿うて走る道に、駅舎や機関区の構内を背景にして、鎧と兜に身を飾った戦国時代の扮装の騎馬武者たちが、太刀を佩き、何より色とりどりの意匠に凝らした旗指物を背負った一群で行進しているではないか。
東久邇宮が語って聞かせてくれた野馬追祭礼は、これのことであるか、と納得もし得心したのだ。宮は東北の第二師団の将校としてしばしば相馬原町の視察に赴いている。
陸軍の飛行場が設置された雲雀ケ原という草原で、古来千年間にわたって執り行われてきた尚武の祭礼儀式であることは、皇室に献上された「講武余韻」という古書に記してある。父帝の大正天皇が東宮であった明治末期に皇族として初めて相馬に下車して野馬追というものを台覧し、翌年には朝鮮皇室の皇太子も同様に車中から野馬追の騎馬行列を見たのだとも侍従から聞いている。
のちに裕仁殿下が昭和天皇となって即位し、日米戦争に開戦した真珠湾の攻撃に至った昭和十六年の春には、代々木練兵場の東亜馬事大会で、親しく眼前での神旗争奪戦というアトラクションを実見した。代々木原頭の一画から打ち上げられた数発の花火で、きらめくような空から赤、青、黄色の旗が日本ずつ舞い落ちてくるのを目がけて駿馬にまたがった騎士たちが颯爽と甲冑姿で疾駆し、鞭を振り交えて奪い合う壮観を、まさに肉眼で見たことも思い出す。
あのとき思わず昭和天皇は玉座から立ち上がって、聞きしに勝る思いで、反射的に身を乗り出したのだった。
百聞は一見に如かず。全国巡察の、そして青年時代の訪欧視察の、さまざまな記憶の中の断片的な祭りと馬の映像のうちの、相馬の野馬追という祭礼の実態を、よやく見た気がした。
人生の中で最も困難な、敗戦という体験を経て、いまや自分は現人神という造られた統治上の政治的フィクションの神学とプロパガンダを身を切る思いで捨てて「人間宣言」を敢えてし、臣民だった国民とともに新憲法の下で共存しうるために、政治家も軍人も当てにはできぬし、いまや全国したしく国民を直接激励せねばならぬとの敗戦国の代表としての責任感が自分を駆り立てている。
国土復興に尽くす国民の前に、身近に接して慰撫し激励する目的の戦後の巡礼で、天皇は各地でもみくちゃにされたり、御料車の中で泊まったり「人間」としての苦汁も味わった。原町の次の下車地はいわきで、常磐炭鉱の地下に潜って働く鉱夫たちにまじって炭鉱の穴倉も体験したのだった。いわきは平事件という暴動の起きた場所でもある。
警備の警察および地元の警防団消防団の動員は尋常でなかった。鉄道沿いには張り付けられた警備の人間であふれていた。
相馬地方の人々にとって、しかし天皇は教えられたとおりの有りがたき「イキガミ様」であった。
神格化されていた直近の日本の元首を、じっさいに目の当たりにした民衆にとって、感激と意外さとの入り混じる感情で迎えたことでもあった。

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