千年パラダイムの中の浜通り その2

「常磐線は植田から旧浜街道沿いの泉田に駅が置かれる予定だったが、東部の泉が強い誘致運動をした結果現在の位置になった、という。」青木雄千代「ふくしま各駅停車」
これによれば、日本鉄道会社の予定路線では、「泉田」という駅名が実現したかもしれない訳だ。
文明開化の世に、陸蒸気を導入しようという新取の気風を示した「泉」地区の先人に比べて、逆に強固な反対運動を展開して、鉄道開通を拒絶した人々もある。
富岡町と大熊町の付近のJR線を眺めてみると、明治30年当時の鉄道反対の声が、地図の裏からにじみ出てくるようだ。
原発で世界に名を挙げた大熊町は、昭和29年11月1日に二ケ村が合併して誕生した。「大野」と「熊」という事なる二つの地区が一緒になったのは、内的条件ではなく、占領軍政策の一環で、地方自治を促進するための地方自治法(昭和22年)や、自治省八足によって同法の大改正が行われ、町村合併促進法(昭和28年)に押しだされるかっこうでの合併だった。
大熊町発行の「86大熊町のすがた」というパンフレットによれば、
「各位と共に生田の試練をのりこえ、町民が一体となり努力を続け」(遠藤正町長)という表現があるほど、合併後のギクシャクがしのばれる。
大熊町内にあるJR線の駅は「大野駅」。
「国道から離れているが、大熊町の中心部で県道の交叉するところに駅がある。乗降客の多い明るい駅だ。
駅の東方海岸に県内最初の第一原子力発電所があり、参観者も多い明るい駅だ」
「大野駅前北側の高台に「石田宗茂翁の碑」と刻まれた高さ2メートルほどの石碑がある。大熊村の初代村長だった石田宗茂は常磐線建設に対し賛否が分かれていたのをまとめ、自分の土地を寄付し駅設置に努力したという碑文があり、裏面にはともに努力をした村会議員の名も刻まれている」(前掲書・青木雄千代)
ここでは石田宗茂氏の遺徳よりも、当時の駅解説反対の運動の激しさの方を指摘しておこう。
さて、常磐線は東に太平洋を望みながら走る風光明美な路線であるが、読者諸兄がもし夜明け前に仙台駅から上り列車に乗り込んで、大熊町を通過し、次の富岡駅にさしかかる頃には、ずっと東の茫漠たる海原の彼方に、東雲どきの太陽の火球が昇ってくるのを期待するところだが、さにあらず。忽然と西の方から旭が昇ってくるのを目撃してびっくりするという怪奇を体験することになる。
この錯視現象は、常磐線を利用する乗客が体験するものとして有名なものだが、事情をせつめいすると次のようになる。
客車の中の乗客は、方向感覚は常に固定されている。進行方向の右と左の両側が中心者の座標から見た方角に感じられる。南へと走っている列車から見れば、観察者は当然ながら進行方向左側に日の出を想定しているのである。
その思い込みを突き崩して、旭または夕日が、正反対の窓に見えるので驚愕するという訳だ。
賢明なる読者はもうお分かりだろうが、常磐線は富岡町に入って夜の森駅を過ぎると富岡駅の手前で大きく東へ迂回し、一時ではあるが北に逆戻りするような形で富岡町の中心部を避けて、左右両側の視界が、東西両側の方角の感覚を逆転させてしまうのである。
これが奇怪な常磐線の錯視の原因である。

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