便意をこらえて 明治の汽車の旅

開通当時の海岸線の蒸気機関車は、記録などによると、アメリカのボールウイン社製テンダー機関車で、明治三十年から二十四輌輸入された2B1軸の炭水車付の機関車。輸入直後、常磐線に配備されたとある。小さな客車を引いて一日に二、三往復した。
汽車に乗ると上野青森間、上野仙台間の普通列車以外は、たいてい貨車と一緒の金剛列車である。列車の前部と後部の車掌のほか制動手も乗務している。汽車が駅のプラットホームに止まると、助役も駅員も客車の扉を片端から開けてゆく。
旅なれた旅客はホームの便所に駆け込む。
駅員は「小便せられたし」と触れ歩いている。こういう駅は五分くらい停車する。老人や婦人は汽車が今にも発車しそうな気がして、なかなか便所へも行けない。
明治六年(一八七三)四月十五日の東京日日新聞には、
「乗車前に厠へ至らんと思へる内発車の期来るに付其の儘乗り込みたりしが、いよいよ便気堪へ難く、既に其場へ漏すべき体なるに付、やむを得ず汽車の窓より小用致せし処、鉄道寮官員に咎められ、遂に東京裁判所へ送致せられしが、則左の通御処分ありたり。 増沢政吉 其の方儀、鉄道汽車に乗り運転中小用致す科、鉄道犯罪例により賠金拾円申付る(「明治鉄道物語」)

当時の十円は米二石分。当時一人が一年に消費するコメの量が一石強とされていた。一八八一年(明治十四年)には放屁して五円という事例もあったという。
「鉄道犯罪罰例」では、不正乗車禁止ほか、喫煙禁止および男子立入禁止(婦人ノ為二設アル車及部屋等二男子妄リ二立入ルヲ許ザズ)などの禁止事項があり、最大二十五円の罰金が定められている。当時の米一石当たり価格四円前後。一升四銭。一日平均三~四合食べたとしても二十五円という罰金は破格である。
外国人も乗る可能性の高い鉄道で、日本人が放尿放屁したり文明的でない行為をすることを、極度に政府は警戒し、乗客に西洋並の「公衆道徳」を求めたのである。
明治二十二年四月二十七日には、肥田御料局長官という政府高官が用便中に列車が動き出したためあわててもどり飛び乗ろうとして転落死。この事件が契機となって、トイレ取付けの声が強く起こり、明治二十二年に造られたホハ6510形にはトイレが設備された。(「昭和鉄道史~明治・鉄道こぼれ話」)
開通当初の鉄道のエピソードで多いのは、客車に乗るのに草履を脱いで上がり、目的地に到着して降りようとして自分の履物がないことに気づくという人が続出したことなどがある。(「明治鉄道物語」)
明治31年7月23日民報の投書欄に次のようなのが載っている。
「〇汽車中の大小便 在福 かぼちゃ商人
拙者は始終汽車に乗って商法上の往来をなすものですが車中大小便の線路にたれながさるるは伝染病の流行せんする折りから甚だ宜しくない事と考へます何とか工夫はありますまいか」
また同年11月12日民報には「〇汽車乗越し 本県大沼郡沼沢村平民××熊太郎ハ再昨日水戸より次駅なる沢までの切符を購ひ岩沼まで乗越したるため鉄道路測違反として検事送りとなる」との記事がある。当時の罰則は厳しかった。

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