ゆうづる三代記  井川 豊
常磐線の急行たち

ゆうづる渡部司撮影

ゆうづる三代記  井川 豊
常磐線の急行たち

駒ヶ嶺駅が開業したのが昭和二十七年であり、三十年代になり、綴駅が内郷駅、石神が東海駅、長塚が双葉駅と改称された、三十三年十月一日には上野青森間に気動車特急「はつかり」が新設された。
そして三十四年には急行「みやぎの」、三十五年には準急「そうま」が新設、気動車の発達と共に、ばい煙の少ない気動車の活躍する場となったが、七〇〇kmにおよぶ長距離のためか「はつかり」にいたっては故障が多く、「はつかり」ならぬ「がっかり」と言われた位であった。そして、急行「北斗」の格下げにより、東海道線の余剰二〇系客車をもって、東北地方の民話「ゆうづる」の愛称で、蒸気機関車最後の特急「ゆうづる」が誕生したのが、昭和四十年十月一日であった。
C62最後の特急ということで、多くのSLファンには、その勇姿を撮影しようと、昼夜の別なく、大変なもてようであったように思う。
身近な対象にあったSLは、いつでも撮れると思っていた私には、この寒空に「ご苦労なこった」位にしか思っていなかったのが本音であった。その「ゆうづる」も、誕生の前年つまり昭和三十九年三月に、草野岩沼間電化工事着手により、急にあわただしくポールの立つのを見ると、「ゆうづる」の余命いくばくもないのを知らされたのであった。
そうなると、55mm標準レンズ一本しか持たないカメラを持って、わが家の近い所に出かけたものであった。早朝のため、中々その姿形をフィルムにおさめることが出来なかったものである。又、条件に左右されもした。真夜中に床を離れ、遠くへ出かけたこともあったが、明るくなるにつれて雨模様の空には、限られた機器ではどうにもならなかった。
又、まてども来ない列車に、よりよい所と、撮影場所を移動しているうちに突然現れ、一コマも撮らずじまいのこともあった。毎日見て居る者でもこうであるから、いくら好きで歩かれている人たちでも大変な事であったと思う。
こした多くのファンに、その美しい姿を、と影に働く人たちの苦労もまた大変であった。特に所属区においては、その整備等に大変苦労されたことであろう。
平区、Aダイヤ、つまり特急「ゆうづる」の機関庫運用である。C62・22・13・37・38・47・48等が主に使用されたようであったが、そのいずれも癖のある缶ばかりであった。
そして平・仙台間ノンストップということで石炭もカロリーの高い練炭が使用されたためか、使い方によってはほとんどの乗務員が中された事があった。
私がこの「ゆうづる」との出逢いが、十月一日である。九月三十日乗務のため、手帳に達示を記入していると、平・仙台間の運用が五列車となっていたが、ダイヤ改正により、列車番号が変わっている位にしか思っていなかったところが、本線に連絡した時になって、いろんな人達が機関車に乗り込み、身動きできない位になり、只事でないと思ったのが「ゆうづる」との最初の出会いであった。
平駅、零時四十三分発、仙台駅・三時○○分着、その運転所要痔分、二時かん十七分、当時にしてはかなりの速度であった。
そして以後、黒い車姿にオレンジの「ゆうづる」のヘッドマークは好被写体になったものであったが、昭和四十二年七月三十日、草野・岩沼間が電化となり、八月十二日からは補機についたSLも切り離され、EL単独運転となり、そして遂に昭和四十二年十月一日、常磐線の完全電化により、初代「ゆうずる」の姿は消え、ED751EL牽引による「ゆうづる」が誕生していくのであった。
SL当時には機関士との呼吸が合わないと、貨物列車等では急こう配を上りそこねた事も度々あったなど、夢のようである。まして、昭和五十三年になり、三代目五八三型EC特急「ゆうづる」が運転されるようになると、SL等、夢の夢という感じである。
苦労した勾配も加速して登る始末である。EL「ゆうづる」四往復、ECによる「ゆうづる」三往復の計上下四本の「ゆうづる」が民話にふさわしく、夜のしじまを海辺に沿った常磐線を走り続けていたが、この年のダイヤ改正により五往復となり、四十年に誕生した「ゆうづる」も二代目、三代目がその姿を現すことなく、走り続けるのが最も美しい姿であろう。
しかしその美しい姿の陰には、SL時代からの人たちの汗と涙と、振り上げた拳のやり場のなかったことがあったのを、私達は忘れてはならないのである。

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