From: 高野
Sent: Tue, Dec 27 2016 11:26:31 JST
To: domingo@df6.so-net.ne.jp
Subject: Re: お礼

二上 英朗様

 お早うございます。
 郵便での手紙と新聞のコピーを受け取りました。有難うございます。
 桃内の天野さんについては姉に聞いて後日お知らせいたします。私が9歳の時の話になりますが、二上さんもご存じの様に昭和20年8月9日、  
 10日、11日の艦載機による原町空襲の時、第一日目は家の裏の大きな李の木に登って短い竹棒を機関銃に見立て、グラマンを目がけて大きな 声で撃ち落とそうとしていました。10日の夜天野さんに助けを求めて転がり込みました。私の両親はごくあたりまえのようにご飯を食べて、さあ寝ようと云った具合でした。母方祖父が近くで医院していて、私の母もあそこで生まれ、故郷としてごく当たり前のように行き来していたようです。
 8月15日には玉音放送が正午からあるからと天野さんの家族4人と私達6人がラジオの前に正座して聞いたのが思い出されます。天野さん家族は皆泣いていましたが私の両親は「よかった、よかった」といって、ほっとした表情でした。高等科に行って居るぐらいの子供がいて私にご飯を喰わしてくれないので(私は生意気だったんだろうね、負い掛けられ、田の畔を踏み外し、田圃にざぶん)、母親は困って握り飯をつくってくれ、そーと食べさせてくれました。父親が桃内のトンネルの所に汽車を止めさせて皆乗って帰って来ました。
 近くに根本さんが済すんでいて、震災の2年前サッカー大会の後立ちより藤岡家の墓地を案内してもらい、記念撮影をした写真を送ったところ、よそ様のお墓の写真をもらうと不幸が起こると云われて返されました。震災の後は千葉県に住んでいます。済まない事をしたと思っています。あの人たちは天野さんの事を良く知っていると思います。
       よい年を迎えて下さい。      高野 光雄
 
—–Original Message—–
From: domingo@df6.so-net.ne.jp
Sent: Sunday, December 25, 2016 7:59 AM
To: 高野

桃内の天野秀延は音楽家として有名で、多くの相馬の小中学校や高校の校歌を作っており、その多くが311複合原発災害で散らされ、双葉地方を中心に南相馬市などから域外へ避難したまま10万人が帰れずにすでに6年。子供たちはこきょうを失ったまま、学校も閉鎖されて、親世代が集まっても、宴会の最期に歌う「校歌」も、こう母校の名とともに効果も廃止という状況です。最も大切な「思い出」という財産をカウントしない国・東電の犯罪的原発事故と隠ぺい工作、といった指摘を10がつの小高での講演で語りました。このときに天野が自分の土地を提供して、村民がみずから桃内駅を建設した事実を章かいしました。
天野が福浦村民に懇請されて村長になった戦争中の昭和17年ころの村づくりの記録映画も紹介しました。彼の家が豪華な邸宅であることなども言及しました。文化財として指定する動きであることも。
天野家との高野との関係をもっとくわしく教えてください。具体的な、住んでいたときの印象や、エピソードがありましたら、教えてください。

二上英朗

> —–Original Message—–
> From: 高野
> Sent: Sat, Dec 24 2016 17:10:26 JST
> To: domingo@df6.so-net.ne.jp
> Subject: お礼
>
> 二上 英朗様
>
> こんにちわ、
> 美味しそうな干しホッキとホッキ飯のもと、そして卒業論文、パンフレット等を送って下さり有難うございます。
> 歴史家として大活躍の様子が目に浮かびます。よくぞ人工透析をしながら健康を維持し、福島と原町を走り頑張っていますね、敬服の至りです。
>
> 先祖を相馬・双葉に持ち、いつもその動向に関心を持っています。原町が空襲を受けた当時、長兄国雄は相馬中学から横須賀海軍工廠に勤労動員として行っており,長姉よし子(92歳で所沢の病院に入院中)は母方伯父の眼科病院の看護婦見習い、を除き10日の晩、両親ととし子姉・照夫兄、・勝義兄、そして私の6人についてきた猫1匹、北原から桃内まで鉄道線路脇を桃内の天野さん宅まで歩いて行き、終戦の日までお世話になりました。
>
> 桃内は母方祖父藤岡が明治維新で相馬侯の御殿医を辞めて桃内に医院を開業したそうです。その跡地にはお墓が建てられています。クリチーバの鈴木正さんの両親、父新造さんは会計として働き、御母さんは藤岡家の養女に成っていて結婚した2人はブラジルへ移住したそうです。新造さんは神主さんのこどもだそうです。
>
> 母方祖母民は浪江の馬場酒造の出だそうで、私も数回よりました。原発の事故後浪江を出て、数か所転々して現在、馬場信治さんと家族は福島市渡利字大久保 52-1 で酒造りをしているそうです。彼とその息子も原校出と聞いています。現在の浪江町長馬場さんも、大熊病院の鈴木院長も一族だそうです。医者の藤岡は17代目が函館で頑張っています、数年前孫達を連れて遊びに行ったことがありますが、その従兄は一昨 年92歳で亡くなり息子が継いでいます。従兄の弟は昨年亡くなり後継者がなく函館の医院を廃業しました。もう?人の弟は旭川で医院をひらいています。
明日は日伯学園の卒業式を大泉町文化ホールで行います。先生方は今日から準備でおおわらわです。
今日クリスマスイブ,楽しいクリスマスでありますよう。体調管理に気を付けて下さい。
高野 光雄

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